新五代史卷四十三 雜傳第三十一 蔣殷
河中出身の権臣とその末路
- 幼くして王重盈の養子となり王氏を称した。梁太祖が河中を得ると重盈の旧恩により子孫を用い、殷は牙将から宣徽北院使に至った。梁太祖の襄陽・淮南攻めの際は正陽に屯した軍を慰労、哀帝の郊天計画をめぐり樞密使蔣玄暉と不和になり、「玄暉らが天子に郊天を勧め諸侯の助祭を待って唐の復興を図っている」と太祖に讒言し中止させた。
- 太祖の簒奪計画が進む中、何太后が玄暉らに「梁王への禅位後も唐家の子母を全うしてほしい」と涙で訴えていたことを、殷は「玄暉が太后に私通した」と誣告、太祖は玄暉・張廷範・柳璨らを処刑し、殷に太后を積善宮で弑させた。哀帝は「母后の一件で郊天を行えない」と詔した。
- 友珪が太祖を弑して自立すると殷を武寧軍節度使としたが、末帝即位後、福王友璋に交代を命じられ拒否。梁の王瓉(王氏の一族)が自分に累が及ぶのを恐れ「殷は王氏の実子ではなく本姓は蔣」と密告したため、末帝は殷の官爵を削り本姓に戻し牛存節に討伐させ、殷は一族もろとも自焼して果てた。