新五代史卷四十三 雜傳第三十一 孔循

出自不詳から権臣へ

  • 出自不明。汴州の富人李讓に拾われ養子となり、梁太祖の下では李讓の養子として仕えるうちに朱氏を冒姓、太祖の子の乳母に養われて趙氏を名乗り殷衡と改名。昭宗東遷後、太祖が天子側近を梁人に入れ替えた際、王殷とともに宣徽使・副使となり、蔣玄暉・張廷範らと昭宗弑逆にも関与した。
  • のち玄暉と不和になり、王殷とともに「玄暉が何太后に密かに仕え郊天の儀で唐の存続を図っている」と太祖に讒言、太祖は激怒し郊天を中止させた。太祖は玄暉・柳璨らを処刑、循と王殷に何太后を弑させ、循は樞密副使、唐滅亡後は姓を孔、名を循と改め汝州防禦使・租庸使を歴任。
  • 荘宗の代に汴州を権知していたが、明宗の反乱で荘宗と明宗どちらが先に洛陽入りするか見て態度を決めようとし、明宗が先着したため明宗方についた。明宗即位後、樞密使。汴州留守時代、麹(酒麹)法違反者の一族を皆殺しにしたことが冤罪と知られ天下の麹禁令を解かせる契機となった。安重誨に取り入り、重誨が皇子を自分の娘と婚姻させようとした際「機密の臣が皇子と婚姻すべきでない」と諫めながら、裏で自分の娘を皇子(宋王從厚)に嫁がせたため重誨に不信を持たれ、忠武軍節度使、のち橫海軍節度使に転じ48歳で没し太尉を追贈された。