梁太祖の謀臣
- 字は興緒、祖は唐潞州節度使李抱眞。唐の金吾衛将軍・台州刺史であったが、浙東の盗賊蜂起で赴任できず西帰する途中、梁に策を献じて留められ節度副使。長安滞在中、宦官劉季述の廃立計画に巻き込まれかけたが「百年仕えた奴が三年の主に背くなど不祥、梁王は大義を掲げる百万の師を擁している」と拒絶し、梁太祖にも「これは覇者たる好機」と決起を促した。
- 昭宗復位後、王師範が青州を梁に降した際は疑心を解くため「張繡が私怨を捨てて曹公に帰した故事」を引いて説得。昭宗弑逆の謀議にも氏叔琮・朱友恭とともに関わり、事後、太祖が彼らの処遇を問うと「晋の司馬氏が君を弑して成濟を誅した故事にならい、彼らに罪を負わせるべき」と進言し、実際に友恭らは処刑された。
- 進士に度々落第した恨みから、白馬駅で唐の公卿裴樞ら7人が賜死させられた際「清流を自称する彼らを河に投げ濁流にしてやればよい」と太祖に進言し実行させた。太祖即位後、戸部尚書を歴任、友珪の代には敬翔に代わり崇政院使となったが、荘宗の梁滅亡後、郭崇韜に「世評とは違い凡人であった」と評され、まもなく処刑された。