新五代史卷四十三 雜傳第三十一 李彦威

昭宗弑逆の実行と粛清

  • 壽州の人。梁太祖に仕え人の意を察するのに長け、養子として朱友恭の名を賜り汝州・潁州の刺史を歴任、右龍武統軍。劉季述の廃立の後、昭宗が復位すると廃されていた徳王裕(当時の皇太子)は赦免されたが、梁太祖は裕の眉目秀麗を憎み崔胤に暗殺を促した。昭宗は嫌がり、蔣玄暉にも「徳王は朕の愛子、なぜ全忠は殺そうとするのか」と涙を流して訴えたが、太祖の意は変わらなかった。
  • 昭宗が洛陽へ遷され「天祐」と改元されたが、晋・蜀はこれを唐の正統な建元と認めず「天復」の元号を使い続け、王建も檄を飛ばして梁討伐を呼びかけた。太祖は昭宗が他鎮へ逃れることを恐れ、河中への出兵と偽って敬翔を洛陽へ送り彦威・氏叔琮に弑逆を命じた。八月壬辰、彦威・叔琮は龍武兵で夜に宮門を叩き、奏事と偽って侵入、夫人裴正一が誰何すると龍武牙官史太がこれを殺し椒蘭殿へ突入。昭宗は酔って逃げ惑ったが単衣のまま柱を回るところを斬られ崩じた。
  • 訃報を受けた太祖は驚愕を装い号泣して「奴輩め、私に悪名を負わせるとは」と罵り、洛陽に戻ると彦威・叔琮を嶺南へ流罪にした上で張廷範に殺させた。彦威は刑死に際し「私を売って口を封じるとは、天の道理はどうなるのか」と叫んだが、廷範は「お前も報いを受けるだろう」と応じた。後に姓名を復された。荘宗の代、唐の旧宮人景姹の証言により、弑逆の際に殺された諸王宗属数百人が同じ穴に埋められていたことが判明し、故濮王を筆頭として一品の礼で改葬された。