新五代史卷四十二 雜傳第三十 趙犨

陳州の防衛と一族の栄枯

  • 先祖は青州の人、代々陳州牙将。幼くして統率力を示し、父叔文に「我が家を大きくするのはこの子だ」と言われた。忠武軍馬歩軍都虞候として王仙芝を撃退、黄巢の乱では陳州の豪傑に推され刺史となり城の防備を固め民を城内に集めた。
  • 黄巢が長安を逐われて東走することを予見し、先遣隊の孟楷を弟の昶・珝が破って捕らえたが、秦宗権が巣に付いて大軍で陳州を囲み「春磨寨」で人肉を糧としたほどの惨状となった。犨は「我が家3代の陳将としての誇りにかけて守り抜けば功業を立てられる」と鼓舞、旧式の巨弩を珝が改良して威力を発揮し敵を寄せ付けず、300日の包囲の末、梁太祖・李克用の援軍で西華の巣軍を破り包囲を解いた。
  • 梁太祖の将来性を見抜いて生祠を建てるほど心服し、子の巖に太祖の娘(長楽公主)を娶らせた。唐昭宗より忠武軍節度使を拝命したが病を得て弟昶に位を譲り、昶・珝と兄弟3代30余年にわたり陳州を治め、鄧艾の故事にならい翟王陂を決壊させ灌漑に用いるなど民に慕われた。

趙巖――梁末帝の寵臣とその末路

  • 犨の次子。梁末帝時代、戸部尚書租庸使として張漢傑・漢倫らと権勢を振るった。末帝が漢傑の姻戚かつ巖の娘婿という縁で親信したため、梁の大臣・老将は皆歯噛みしたが末帝は最後まで気づかなかった。友珪が太祖を弑した際、巖は末帝に楊師厚挙兵を勧め功を立て、袁象先とともに友珪誅殺・伝国璽の回収に功があった。
  • 公主の婿として奢侈を極め、良田大宅を占有し商旅から搾取し一飲食に万銭を費やした。羅紹威が誅した魏博の牙兵を楊師厚が復活させると、巖は租庸判官邵賛と謀り「魏を相・魏の2鎮に分けるべき」と進言、末帝がこれに従うと魏博は晋に降り梁は河北を失う結果となった。
  • 郊天の実施を巖が勧めたが敬翔は「国庫が空の今行えば賞賜で財政がさらに窮する」と反対、末帝は聞かず準備を進めたが荘宗の進撃の報で中止。張文禮の梁への内通提案も巖と漢傑が反対して立ち消えた。荘宗軍が汴に迫った際、群臣が洛陽への撤退を進言する中、巖だけは「もはやこの楼を降りて誰が保証できるか」と言い放ち、末帝は建国楼上で自害した。巖は日頃厚遇していた許州の温韜を頼ったが、韜は巖を斬って荘宗に献じた。荘宗の梁滅亡後、段凝の奏請で巖の家族も族滅させられた。

史論

  • 禍福の理は君子と小人とで異なる。老子は「禍は福の寄る所、福は禍の伏す所」と言い、後世の論者はこれを至言とするが、善を為して福を受けるのが本来であり、悪を為して禍を受けるのが本来である。君子が禍と見えるものに遭っても必ずしも福とならぬわけではなく、小人が福でないものを求めても必ずしも禍に至らぬわけではない、という自然の理を老子は突いたに過ぎない。犨は先見の明で梁太祖に取り入り子孫まで禄利を得たが、一族は結局梁とともに滅んだ。犨が梁に求めた福とは老子の言う「福」であって、君子の求めるべきものではなかった。戒めとすべきである。