河陽をめぐる攻防
- 陳州項城の人。学問を志すも成らず出家、乞食生活の末に黄巢に投じ、のち淮南から高駢に帰し光州刺史。秦宗権に攻められ守りきれず項城に退き、諸葛爽を頼って河陽に入り懐州刺史となった。
- 諸葛爽死後、その子仲方を擁立した劉經と対立し攻防、張言(河陽の裏切り者)と結んで河陽・河南を巡る争いを続けた末、罕之は河陽を得て言は河南を得て梁に属し、互いに盟を結んだが、罕之の苛政と過度な供給要求で不和になり言に河陽を襲われ晋へ亡命。晋は罕之を澤州刺史とし、李存孝の援軍で言を攻めたが梁の援助で敗れ、太原の李克用に身を寄せた。
- 山東での晋の勢力拡大に功があり、克用に「小さな鎮を得て休養したい」と願うも聞き入れられず不満を抱いた。光化元年、潞州の薛志勤死去に乗じ無断で入城したことに晋王が怒って李嗣昭に攻めさせると、罕之は晋の守将を捕らえ子の頎を梁に送って乞兵、梁は丁会を潞州に置き罕之を河陽節度使としたが、赴任途上、懐州で病没、58歳。子の頎は後に梁で禁兵を掌り、末帝誅殺後は官を歴任し天福中に70歳で没し太尉を追贈された。