新五代史卷四十二 雜傳第三十 朱瑾

兗州の攻防と呉での最期

  • 宣の従弟。兗州節度使齊克讓に才を認められ娘を娶ることになり、婚礼の輿に兵を伏せて夜襲し克讓を逐って留後を自称、泰寧軍節度使を拝命。梁太祖に汴州軍卒誘引を責められ攻撃され、曹州・濮州を失いながらも宣とともに10余年抗戦した。
  • 梁が瑾の兄瓊ら降将を使って偽りの降伏勧告をさせた際、瑾は兗城下で偽って承諾すると見せかけ、太祖の使者劉捍が瓊を送ってきたところを橋下の伏兵で捕らえ、瓊を斬って首を城外に投げ、太祖は落とせず囲みを残して撤退した。その後も葛從周らと攻防を続けたが、宣が鄆州で敗れると晋に援軍を求め李承嗣・史儼の騎兵5千を得るも、梁軍に押されて食糧も尽き、部将康懷英が城を梁に明け渡した。瑾らは沂州・海州を経て淮南の楊行密の下へ亡命。
  • 行密は玉帯を贈って歓迎し、瑾は武寧軍節度使・行軍副使として清口で梁の龎師古を破る功を立て、行密没後も東南諸道行営副都統・平盧軍節度使・同中書門下平章事に至った。しかし徐温父子の専政に不満を持ち、知訓を殺す機会をうかがい、月旦の宴で妾が知訓に犯された恨みも重なり、泗州赴任の送別の宴で伏兵を放って知訓を殺害。しかし主君隆演に「今日、呉のために患いを除いた」と告げても「これは私の関知するところではない」と拒まれ、絶望して自刎、52歳で没した。妻陶氏も処刑されたが従容として死に赴き、瑾の名声を慕った民が墓に土を盛り高塚となったため徐温らはこれを憎み遺骸を掘り出して雷公塘に投げ捨てた(後に徐温が瑾の夢に悩まされ骨を集めて塘のほとりに葬り祠を建てた)。