新五代史卷四十一 雜傳第二十九 趙匡凝

襄陽の忠節

  • 字は光儀、蔡州の人。父德諲は秦宗権に仕え申州刺史となったが、宗権反乱後に山南東道7州を挙げて梁に降った。梁太祖はこれを喜び行営副都統等に任じて蔡州攻略に功があった。德諲没後、子の匡凝が自立し、荊南の成汭死後、雷彦恭が荊南を奪うと弟匡明に彦恭を逐わせ、梁太祖は匡凝を荊襄節度使、匡明を荊南留後とした。唐衰退期に貢賦を絶やさなかったのは匡凝兄弟だけであった。
  • 匡凝は威風堂々とし学問を好み蔵書数千巻、善政で知られた。梁が兗州の朱瑾を攻めた際、晋が救援に送った史儼らが淮南に逃れ、晋王が匡凝に道を借りて楊行密への使者を送ろうとしたところ梁に発覚し激怒を招いた。梁は氏叔琮・康懐英に匡凝を攻めさせ泌隨・鄧州を奪われ、匡凝は講和を請うて事なきを得た。
  • 梁太祖が昭宗を弑して唐簒奪を図った際、匡凝兄弟の従わないことを恐れ使者を送ったが、匡凝は涙ながらに「唐の厚恩を受けた身、二心はない」と答えた。梁は楊師厚に攻めさせ、匡凝は敗れて楊行密の下へ、匡明は蜀へそれぞれ亡命した。広陵で楊行密に「輕車重馬で梁に貢いでいた身が今は敗れて我が下に来たか」と揶揄されると、匡凝は「唐臣として貢いだのであり賊に献じたのではない、力尽きて公に帰しただけ、生死は公次第」と答え、行密は厚遇した。行密没後、楊渥の代に冷遇され、渥が青梅を食べているのを見て「食べすぎれば熱病になる」と忠告したところ嫚りと取られ海陵に遷され、のち徐温に殺された。匡明は蜀で客死した。