新五代史卷四十 雜傳第二十八 韓建

華州の再建と昭宗幽閉

  • 字は佐時、許州長社の人。蔡州軍校から鹿晏弘に従い黄巣討伐、興元を占拠するも守れず蜀へ逃れ金吾衛将軍。潼関防禦使・華州刺史となり、荒廃した華州で自ら農事を督し民の疾苦を問うた。文字を知らなかったが器物に名目を記させて独学し、玉篇を得て音韻に通じた。当時武人ばかりの中で撫民と好学で知られ、荊南の成汭(郭姓を冒称)と並び「北韓南郭」と称された。
  • 大順元年、張濬の晋討伐に従うが敗走。河中の後継争いでは王行瑜・李茂貞とともに王珙を支持し京師に迫って宰相韋昭度・李磎を殺害、晋の介入で撤兵。乾寧3年、李茂貞が再び京師に迫ると昭宗は太原への避難を望んだが、建が「藩鎮の跋扈は茂貞だけではない、近畿を捨てて塞外を巡れば渡河もままならなくなる」と諫めて華州へ迎えた。
  • 天子の護衛兵を解散させ、諸王が謀反を企てていると讒言して十六宅に幽閉。李筠を誅殺させ、劉季述と結んで諸王を皆殺しにし、昭宗は「建のために徳政碑」を建てさせられたが内心悔いていた。建は昭宗を廃し德王裕を立てようとしたが、父叔豊に「陳許の田夫の身で天子の厚恩を受けながら大事を企てれば族滅の禍を招く」と諫められ断念。
  • 光化元年、昭宗が長安に戻ると建の画像を描かせ潁川郡王に封じ鉄券を賜ったが王爵を辞し許国公となった。梁太祖の攻勢で同州が降ると建も降伏、太祖に「判官李巨川の謀に過ぎない」と弁明、太祖は巨川を殺したが建は従軍を許された。昭宗東遷の際、太祖の意を察して忠告し評価を得て平盧軍節度使、太祖即位後は司徒同中書門下平章事。太祖の剛暴な性質の中で唯一諫言を許された。太祖の郊祀で大礼使を務めた後、許州に出鎮し、太祖崩御後の許州軍乱で殺された。享年58。