新五代史卷三十九 雜傳第二十七 劉守光

幽州劉氏の興亡

  • 深州樂壽の人。父仁恭は幽州李可挙に仕え穴攻めの技で「劉窟頭」と呼ばれ軍校に出世。李匡威に疎まれ瀛州景城県令に左遷されたが瀛州の乱を平定し功を認められた。匡威が弟匡儔に逐われると仁恭は戍兵を率いて幽州を攻めたが敗れ晋に奔り、晋に信任されて幽州留後に任ぜられ盧龍軍節度使となった。
  • 晋に兵を求められて拒み晋使を殺し晋と戦い(安塞の戦いで晋王大敗)、子の守文に滄州を奪わせ横海軍節度使とした。仁恭・守文父子が10万(号称30万)で魏を攻めると梁の李思安が大敗させ、以後梁の攻勢で瀛州・莫州を失い晋に接近。
  • 天祐3年、梁の滄州攻めに備え領内の男子15~70歳全てに「定覇都」の刺青を施し20万を動員したが、包囲された滄州は食糧が尽き人肉を食らう惨状となった。晋の潞州攻めで梁が撤退し辛くも救われたが、仁恭は驕奢に耽り、大安山に宮殿を築き美女を集め道士と丹薬を求め、私鋳銭のため銅銭を隠し口封じに職人を殺害するなど乱脈を極めた。仁恭の愛妾羅氏を子の守光が姦通したため守光を笞打ち追放した。
  • 梁開平元年、仁恭が大安山にいる隙に守光が李思安を撃退し盧龍節度使を自称、仁恭を幽閉。兄守文が父の幽閉を怒り討伐したが敗れ、契丹・吐渾4万を得て再戦するも捕らえられ守光に殺された。守文の将孫鶴・呂兖らが守文の子延祚を立てて抗戦したが、百余日の包囲で城中は人相食の惨状となり降伏した。
  • 守光は驕慢で鉄籠・鉄刷で人を虐待し、「私が赭黄の衣で南面すれば天下に帝たりうるか」と豪語、孫鶴の諫言も聞かず、趙王王鎔の救援要請も「両虎の争いを待つのが得策」と拒否。晋が柏郷で梁を破ると、守光は諸鎮を脅して自らを「尚書令尚父」に推戴させ、梁にも河北兵馬都統を求めたが、册立の儀礼が唐の太尉礼に過ぎないことに怒り、梁晋の使者を投獄。孫鶴が「百日を出でずして大軍至らん」と諫めて処刑された。
  • 梁乾化元年8月、守光は自ら「大燕皇帝」を号し年号を応天と改めたが、晋の周德威に攻められ諸州が次々降伏。守光は使者を通じて哀願するも許されず、寵臣李小喜の勧めで降伏を渋るうちに晋軍に城を落とされ、仁恭とその一族300口が捕らえられた。守光は妻子と共に逃亡中に道に迷い、妻の祝氏が食を乞うた田家に正体を見破られ捕縛。晋王に「俎上の肉、王の意のままに」と応じ、最後に李小喜を道連れに処刑を望んで刑死した。仁恭は雁門で心血を先王の墓に捧げられた後、斬られた。