新五代史卷三十七 伶官傳第二十五 郭従謙
要約
郭門高こと郭従謙は伶人(芸名が門高)出身ながら軍功があり、親衛軍にあたる従馬直の指揮使となった。姓が郭であることから郭崇韜を叔父と仰ぎ、皇弟李存乂の養子ともなっていた縁で、この二人が讒言により死に追いやられたことを深く恨み、酒を軍中に置いて涙を流し冤罪を訴えた。
折しも従馬直の軍士王温が禁中で謀反を企てて発覚し誅殺されると、荘宗は従謙を「存乂・崇韜の一派で私に背いている」と戯れに詰った。恐れた従謙は配下の軍士たちに「財産を使い果たして肉を食い酒を飲め」と煽り、理由を問われると「上は王温の一件のため、鄴を破ったのちお前たちをことごとく生き埋めにするつもりだ」と偽りを吹き込み、軍士は信じてみな反乱を企てるようになった。
折しも李嗣源が反乱を起こして京師に迫り、荘宗は東へ逃れようとしたが阻まれ、なお二万余の兵で汜水を防ごうとしていた。そこへ従謙の軍が興教門を攻め、荘宗は諸王・衛士を率いて奮戦したが、乱兵に城壁から火を放たれて侵入され、楼上から矢を受けて重傷を負い、絳霄殿の廊下で崩じた。皇后・諸王・左右の者はみな逃げ去り、楽器も焼かれた。
李嗣源は洛陽に入って遺骨を得て新安の雍陵に葬り、従謙は景州刺史とされたがまもなく殺された。伶人を寵愛した荘宗が、その伶人によって弑逆された末路であった。
現代語訳全文
郭従謙(門高)の乱
- 郭門高という者は、名を従謙といい、門高はその優名(芸名)である。芸人として取り立てられたとはいえ、かつて軍功があった。そのため従馬直指揮使とされた。従馬直はいわば親衛軍である。
- 従謙は姓が郭であることから崇韜を拝して叔父とし、また皇弟の存乂もまた従謙を養子とした。崇韜が死に存乂が囚われるに及んで、従謙は酒を軍中に置き、憤然として涙を流し、この二人の冤罪を訴えた。
- この時、従馬直の軍士王温が禁中に宿衛していたが、夜に乱を謀り、事が発覚して誅殺された。荘宗は従謙を戯れて言った。「お前は存乂・崇韜の一派であって私に背いている。また王温に反乱を起こさせて、今度は何をしようというのか」と。従謙は恐れて退き、その軍士たちを激して言った。「お前たちの財産を使い果たして肉を食い酒を飲め、後日のための計画などする必要はない」と。軍士がその理由を尋ねると、従謙はそこで言った。「上(荘宗)は王温の一件のせいで、鄴を破るのを待ってお前たちをことごとく生き埋めにするつもりだ」と。軍士たちはこれを信じ、みな乱を起こそうとした。
荘宗の最期
- 李嗣源の軍が反乱を起こして京師に向かった。荘宗は東の汴州に行幸しようとしたが、嗣源が先に入ってしまった。荘宗は万勝まで至ったが進むことができず引き返した。軍士は離散したが、なお二万余人が残っていた。
- 数日を経て、荘宗はふたたび東の汜水に行幸し、関を押さえて防ぐことを謀った。四月丁亥朔、群臣を中興殿で朝見させ、宰相との対面は三刻で終わった。従駕の黄甲馬軍は宣仁門に陣を敷き、歩兵は五鳳門に陣を敷いて、荘宗が内殿に入って食事をするのを待っていた。
- 従謙は陣営から刃をむき出し矢をつがえて馳せて興教門を攻め、黄甲軍と互いに射合った。荘宗は乱を聞いて諸王や衛士を率いて乱兵を撃ち、門を出た。乱兵は火を放って門を焼き、城壁を伝って侵入した。荘宗は数十百人を撃ち殺した。乱兵は楼上から帝を射て、帝は重傷を負って絳霄殿の廊下に倒れた。皇后・諸王・左右の者はみな逃げ去った。午の刻になって帝は崩じた。
- 五坊の楽人善友が楽器を集めてこれを焼いた。李嗣源が洛陽に入ってその遺骨を得て、新安の雍陵に葬った。従謙を景州刺史としたが、まもなくこれを殺した。
- 伝に言う、「君主がこれによって始まれば必ずこれによって終わる」と。荘宗は伶人を好んで門高に弑され、楽器で焼かれた。信じないでいられようか、戒めないでいられようか。