史彦瓊の専横
- 史彦瓊という者は、武徳使となって鄴都に住み、魏博六州の政務はすべて彦瓊の決するところであった。留守の王正言以下、みな頭を垂れてこれに仕えていた。
- この時、郭崇韜が罪もなく蜀で殺されたが、天下はまだその死を知らなかった。ただ京師でその子供たちが殺されるのを見ただけであった。そこで人々は伝え合って言った。「崇韜は魏王継岌を殺して自ら蜀の王になろうとしたのだ」と。この理由でその一族が滅ぼされたのである。鄴の人々はこれを聞いて疑惑を抱いていた。
- そうこうするうちに朱友謙もまた殺された。友謙の子の建徽は澶州刺史であった。詔が下って彦瓊に彼を殺させた。彦瓊はその事を秘密にし、夜半に城を馳せ出た。鄴の人々は彦瓊が理由もなく夜に馳せ出るのを見て、驚いて伝えて言った。「劉皇后は崇韜が継岌を殺したことに怒り、すでに帝を弑して自ら立とうとしている。急ぎ彦瓊を召して事を計っているのだ」と。鄴都は大いに恐れた。
- 貝州の人で鄴に来た者があり、この話を伝えて帰った。戍卒の皇甫暉はこれを聞き、これによって趙在礼を脅して乱を起こした。在礼はすでに館陶に至っていた。鄴都廵検使の孫鐸は彦瓊に会って兵を求め賊を防ごうとした。彦瓊は決して与えず言った。「賊はまだ来ていない。来てから兵を与えても遅くはあるまい」と。まもなく賊が到着した。彦瓊は兵を率いて北門に登ったが、賊の叫び声を聞いて大いに恐れ、その兵を捨てて逃げ、単騎で京師に帰った。在礼がこれによって鄴に入ることができ、その反乱を成し遂げたのは、彦瓊がこれを引き起こし放任したことによるものである。