新五代史卷三十五 唐六臣傳第二十三 杜曉

孝と非業の死

  • 唐が亡んだとき、また杜暁という者がいた。字は明遠、祖の審権、父の讓能はいずれも唐の相であった。昭宗の時、王行瑜・李茂貞の兵が京師を犯すと、昭宗は讓能を臨皐で殺して自ら解決した。暁は父が無罪で死んだことから喪に居て哀毀し、喪が明けても布衣幅巾のまま自ら廃すること十余年に及んだ。崔胤が塩鉄を判すると巡官に招き畿県の尉・直昭文館を除したが、いずれも起たなかった。崔遠が戸部を判し再び巡官に招いた際、ある人が暁に「嵆康が死んで子の紹が自ら廃して仕官しなかったとき、山濤は物理をもってこれを責め、ついに仕えました。あなたは杜氏の歳時の祭祀を舗席にし匹庶と同じにすることに忍びられるのですか」と言った。暁はそこで起用に応じ、しばしば遷って膳部郎中・翰林学士となった。
  • 梁の太祖の即位後、工部侍郎に遷り、開平二年、旨を奉じ中書侍郎同中書門下平章事を拝した。友珪が立つと礼部尚書・集賢殿大学士に遷った。袁象先らが賊(友珪)を討った際、兵が大いに掠奪し、暁は乱兵に殺された。右僕射を贈られた。

史論――朋党の説

  • 嗚呼、初めに朋党の論を作った者は誰であろうか。甚だしいことに、俑(人形副葬品)を作った者(悪しき前例を作った者)というべきである、まことに不仁の人と言うべきである。私はかつて繁城に至り魏受禅碑を読み、漢の群臣が魏の功徳を称え大書深刻し自らその姓名を列ねて世に誇っているのを見た。また梁実録を読み、文蔚らの行いがこのようであったのを見て、涙を流さないことはなかった。国を人に与えながら自ら誇り、ついに相となる、これは小人でなければ誰ができようか。
  • 漢・唐の末、その朝廷を挙げてみな小人であった、その君子はどこにいたのであろうか。漢が亡ぶとき、まず朋党をもって天下の賢人君子を禁錮し、その朝に立つ者はみな小人であった、その後漢はこれに従って亡んだ。唐が亡ぶときもまた先に朋党をもって朝廷の士をことごとく殺し、その残り存する者はみな庸懦不肖・傾険の人であった、その後唐はこれに従って亡んだ。
  • そもそも人の国を空しくしその君子を去らせようとする者は必ず朋党の説を進める。人主の勢いを孤立させその耳目を蔽おうとする者は必ず朋党の説を進める。国を奪って人に与えようとする者は必ず朋党の説を進める。君子たる者はもとより常に過ちが少なく、小人がこれに罪を加えようとしても、誣うことのできるものとできないものがあり、あまねく及ぼすことができない。天下の善人をことごとく挙げその類を求めてすべて去らせようとするなら、ただ朋党と指すしかない。ゆえにその親戚故旧をこれ朋党と言うことができ、交遊執友をこれ朋党と言うことができ、宦学相同じくする者をこれ朋党と言うことができ、門生故吏をこれ朋党と言うことができる。これらの者はみなその類であり、みな善人である。ゆえに言う、人の国を空しくしその君子を去らせようとする者は、ただ朋党をもってこれに罪すれば免れる者はいなくなる、と。
  • そもそも善を善とする者が相楽しむのはその類が同じであるからで、これは自然の理である。ゆえに善を聞く者は必ず互いに称誉し、称誉すればこれを朋党という。善を得る者は必ず互いに薦引し、薦引すればこれを朋党という。人に善を聞いても称誉させなければ、人主の耳は下に善があることを聞かなくなる。善を見ても薦引させなければ、人主の目は善人を見ることができなくなる。善人が日々遠ざかり小人が日々進めば、人主たる者は倀倀として(あてもなく)誰と治安の計を図ろうか。ゆえに言う、人主の勢いを孤立させその耳目を蔽おうとする者は必ず朋党の説を用いる、と。
  • 一人の君子が存すれば、群小人が多くとも必ず憚るところがあり敢えてしないところがある。ただ君子を空しくしてこそ、その後に小人は志を肆にして為さないところがなくなる。すなわち漢・魏・唐・梁の際がこれである。ゆえに言う、国を奪って人に与えることができるのは、その君子によるものであり、君子を空しくするのは朋党をもってこれを去らせることによる、と。
  • 嗚呼、朋党の説を人主は察せずにいられようか。伝に「一言もって邦を喪ぼすべし」とあるのは、まさにこれを言うのではないか。鑑みずにいられようか、戒めずにいられようか。