才知と孝行
- 張策は字を少逸といい、河西燉煌の人である。父の同は唐の容管経略使であった。策は若くして聡悟で学を好み章句に通じていた。父の同が洛陽敦化里に居り井戸を浚った際、古い鼎を得た。銘に「魏黄初元年春二月、匠は吉、千同」とあり、これを奇として策に見せると、策は当時十三歳であったが同の側に居て「漢の建安二十五年に曹公が薨じ改元して延康としましたが、この年十月に文帝が禅譲を受けまた黄初と改元しました。すなわち黄初元年に二月はないはずです、この銘はなぜ誤っているのでしょうか」と言った。同は大いに驚きこれを異とした。
- 策は若くして仏教の説を好み、髪を落として僧となり長安の慈恩寺に居ったが、黄巣が長安を犯すと策は初めの服に戻り父母に事えて乱を避け、田里に居ること十余年、召されて博士を拝した。邠州の王行瑜が観察支使に招いたが、晋王李克用が行瑜を攻めると、策は婢とともに肩輿でその母を東に帰らせ、積雪の中を行った、行く者はこれを憐れんだ。梁の太祖が四鎮を兼ねると鄭滑支使に招いたが、母の喪により職を解いた。喪が明けると唐に入り膳部員外郎となった。華州の韓建は判官に招き、建が許州に移るとその掌書記とした。建は策を太祖のもとへ聘問させると、太祖はこれを見て喜び「張夫子が来た」と言い、そのまま留めて掌書記とし、朝に薦めてしばしば中書舎人・翰林学士を拝した。太祖の即位後、工部侍郎に遷り、開平二年、旨を奉じ刑部侍郎同中書門下平章事を拝した。中書侍郎に遷ったが、風の病により罷められ刑部尚書として致仕し、洛陽で没した。