清廉な学者の生涯
- 石昂は青州臨淄の人である。家には書数千巻があり四方の士を招くことを喜んだ。士は遠近を問わず多く赴いて学問し、その門下に食する者は何年にも及んだが、昂はかつて怠る色を見せなかった。しかし昂は仕進を求めなかった。節度使符習はその行いを高くみて臨淄令に召した。習が京師に朝すると監軍の楊彦朗が留後事を知ったが、昂が公事によって府に至り上謁した際、贊者(取次役)が彦朗の諱を避けて姓を「右」に改めて「右昂」と呼んだ。昂は庭に趨り出て彦朗を仰ぎ責め「内侍たるあなたはなぜ私事によって公の姓を害するのですか、私の姓は石であって右ではありません」と言った。彦朗は大いに怒り衣を払って立ち去った。昂はすぐさま趨り出て官を解いて家に帰り、その子に語って「私はもとより乱世に仕えることを欲しなかったが、果たして刑人に辱められた、子孫よ、これを戒めとせよ」と言った。
- 昂の父もまた学を好み、平生仏説を喜ばなかった。父が死ぬと、昂は柩の前で尚書を誦し「これは我が先人が聞きたいものであった」と言い、その家に仏事をもって先人を汚すことを禁じた。晋の高祖の時、天下に孝悌の士を求める詔が出ると、戸部尚書王権・宗正卿石光贊・国子祭酒田敏・兵部侍郎王延らはともに東上閤門に詣り昂の行義を詔に応じるべきものとして上げた。詔して昂を京師に至らせ便殿で召見し、宗正丞とし、少卿に遷らせた。
- 出帝の即位後、晋の政は日々壊れていったので、昂はしばしば上疏し極諫したが聞かれず、病と称して東に帰り、寿をもって家で終わった。昂がすでに去ってから晋室は大いに乱れた。