澤州籠城の死
- 彦章と同時に裴約という者がいた。潞州の牙将である。荘宗が李嗣昭を昭義軍節度使としたとき、約は裨将として澤州を守っていた。嗣昭が没するとその子継韜が澤・潞をもって叛き梁に降った。約は州の人々を召して泣いてこれを諭し「私は故使(嗣昭)に仕えること二十余年、財を分け士をもてなし梁への仇を報いようとしていたのを見てきたが、不幸にも早世された。今、君父の喪もまだ葬られていないのに、君親に背くようなことはできない、私はここで死ぬことはできても、梁に従って帰ることはできない」と言うと、人々はみな感じて泣いた。梁は董璋を遣わし兵を率いてこれを囲ませたが、約は州人とともに拒守し、荘宗に救いを求めた。
- 当時荘宗はまさに梁人と河上で戦っており、すでに大号を建てたばかりであったが、継韜が叛いて梁に降ったと聞くと大いに憂色を示した。しかし約独りが叛かなかったと聞くと喜び「私は継韜に何を薄くし、約に何を厚くしたというのか、それなのに約はよく逆順を分けることができるのか」と言い、符存審を顧みて「私は澤州を惜しまない、梁と一つの州は容易に得られるが、約は得難い、お前は機を識っている、私のために約を迎えて連れて来い」と言った。存審は五千騎を率いて遼州まで馳せたが、梁の兵はすでに澤州を破っており、約は殺された。