太祖・世宗の信任
- 鄭仁誨は字を日新といい、太原晋陽の人である。初め唐の将陳紹光に仕えた。紹光は人となり驍勇で酒に乱れるのを好み、かつて酔って怒り仁誨に剣を抜いて殺そうとしたとき、左右はみな逃げ走ったが、仁誨は立ったまま動かず恐れる色もなかった。紹光は剣を地に投げ仁誨を撫でて「お前には器量がある、必ず富貴になるだろう、私の及ぶところではない」と言った。仁誨は後に紹光のもとを去り、郷里に還って母に孝を尽くすことで聞こえた。
- 漢の高祖が河東節度使であったとき、周太祖はその帳下にあり、時々仁誨のもとを訪れ語り合うことを大いに楽しみ、事に疑いがあればすぐさま仁誨に質問した。仁誨の答えは阿ることがなく、周太祖はますますこれを奇とした。漢の興立後、周太祖が枢密使となると仁誨を召して用い、しだいに官を累ね内客省使に至った。太祖が河中で李守貞を破ると、軍中の機画で仁誨が多く参決した。太祖の即位後、仁誨を大内都点検・恩州団練使・枢密副使とし、宣徽北院使に遷って鎮寧軍節度使として出した。顕徳元年、枢密使を拝した。
- 世宗が河東を攻めると、仁誨は東都を留守した。翌年冬、病により没した。世宗がその喪に臨もうとすると、有司は「今年は喪に臨むのに利がありません」と言ったが、世宗は聞かず、まず桃茢(桃の枝と葦の穂の祓具)を用いてから臨んだ。仁誨はその微賤な頃から常に太祖のために謀画していたが、大位に居るに及んでもかつてその評判が聞こえることはなく、太祖・世宗ともにこれを親重した。しかしまた謙謹で礼を好み自ら誇ることがなく、士大夫に称された。中書令を贈られ韓国公を追封され、諡は忠正といった。