新五代史卷三十一 周臣傳第十九 扈載
文才と早世
- 扈載は字を仲熙といい、北燕の人である。若くして学を好み文を能くした。広順初、進士に挙げられ高第に及第し校書郎・直史館を拝し、再び監察御史に遷った。その文章は辞の多いことを自ら喜びとし、常に歴代の有国の廃興治乱の跡を次第にたどり「運源賦」を作り甚だ詳しかった。また相国寺に遊んだ際、庭の竹の愛すべきを見て「碧鮮賦」を作りその壁に題した。世宗はこれを聞き小黄門を遣わして壁の詩を写させ、これを見て称賛し水部員外郎知制誥を拝させ、翰林学士に遷し緋を賜った。しかし載はすでに病んで朝謝することができず、居ること百余日、力めて病を押して学士院に入直した。世宗はこれを憐れみ告を賜って邸に帰らせ、太医を遣わして病を診させた。
- 初め載は文をもって一時に名を知られ、枢密使王朴は特にその才を重んじ宰相の李穀に薦めたが、久しくして用いられなかった。朴が穀に「扈載はどうして舎人にならないのか」と問うと、穀は「その才を知らないわけではないが、載は命が薄く堪えられないのではと恐れている」と答えた。朴は「公は宰相として賢を進め不肖を退けることを職としているのに、なぜ命などと言うのか」と言った。まもなく召されて知制誥を拝し、学士となったが、年内に病没した。年三十六。議者は穀が人を知る力があり、朴が士を薦める力があるとした。
- 当時天子(世宗)は英武で天下の奇才を招くことを楽しみ、特に文士を礼遇した。載は張昭・竇儼・陶穀・徐台符らとともに登用されたが、穀は数人の中で文辞が最も劣り、特に行いがなかった。昭・儼はしばしばこれと論議しその文は粲然たるものであったが、穀はただ帝の意のあるところを先取りして諂諛を進め人主に合わせるだけで、事の大小を問わず必ず美を称え頌賛した。京城を広めることや木偶の耕人、紫芝・白兎の類に至るまでみな頌を作って献じ、その辞は大抵俳優に類していた。しかし載は不幸にして早く没したため、論議は昭・儼に及ばなかったが、穀のような諂いをすることはなかった。
史論
嗚呼、器を作る者に良材はなくとも良匠がいれば作ることができ、国を治める者に能臣はなくとも能君がいれば治めることができる。おそらく材は匠を待ってこそ用いられ、臣は君によって用いられるということであろう。ゆえに国を治めることは碁を打つことに喩えられる。その用を知りその置くべき所を得た者は勝ち、その用を知らずその置くべき所でない所に置いた者は敗れる。敗れる者は碁盤に目を注いで終日心を労するが、碁を善くする者に見せてその置く所を易えさせれば勝つ。勝つ者が用いるのは敗れた者の碁石である。国を興す者が用いるのは国を滅ぼした者の臣である。王朴の材は誠に能ありと言うべきだが、世宗に遇わなければどうして施すことができようか。世宗の時、外は征伐・攻取・戦勝に事え、内は制度を修め刑法を議し律暦を定め礼楽の遺文を講求したが、用いた者はみな五代の士であった。どうしてみな晋・漢では愚かで臆病であったのに周では才知に富んだといえようか。ただ用いる所を知っていただけである。 乱れた君は常に愚かで不肖な者を上に置きその能わざるを強いてその短所を暴き、賢く知恵ある者を下に置いてその材を埋没させる。君子も小人もみなその所を失い、身は危亡に陥る。治まった君は賢知の者を近くに置き愚かで不肖な者を遠くに置き、君子・小人おのおのその分に適わせ、身は安楽を享受する。治と乱の隔たりは甚だしく遠いようであっても、その招く所以のものは多くない。その置く所を反対にするだけである。嗚呼、古来治まった君は少なく乱れた君は多い、まして五代においてをや。士の遇不遇はどれほど嘆いても尽きないものである。