新五代史卷三十一 周臣傳第十九 王朴
王朴(字は文伯、東平の人)は若くして進士に及第し、漢の枢密使楊邠に仕えたが乱を予見して去り難を免れた。周世宗に仕え「平辺策」を献じて先に呉・南唐を、最後に北漢を討つべしという天下統一の方略を説き、枢密使として世宗の信任篤く、征伐・法制・京師の都市計画・暦法(欽天暦)・雅楽の考正など多方面で活躍した。顕徳六年、汴口巡視の途上で急病を得て没した。
漢末の出仕と周への仕官
- 王朴は字を文伯といい、東平の人である。若くして進士に挙げられ校書郎となり、漢の枢密使楊邠に依った。邠は王章・史弘肇らと隙があり、朴は漢の興立が日浅く隠帝は若く弱いのに小人を任用し、邠が大臣でありながら将相と不和であることから必ず乱れると見て、邠のもとを去り東に帰った。後に李業らが隠帝に権臣の誅殺を教え、邠は章・弘肇とともに殺され、三家の食客も多く連座したが、朴は先に去っていたため独り免れた。
- 周の世宗が澶州に鎮すると、朴は節度掌書記となった。世宗が開封尹となると朴は右拾遺を拝し推官となった。世宗の即位後、比部郎中に遷った。
平辺策
- 朴は「平辺策」を献じ、次のように論じた。唐が道を失って呉・蜀を失い、晋が道を失って幽・并を失った。失った原因を観れば、これを平らげる術も知れる。国を失う時は君が暗愚で政が乱れ、兵が驕り民が困窮し、近くは内に姦があり遠くは外に叛くものが出る。小さな乱を制せなければ僭越に至り、大きな乱を制せなければ濫用に至る。天下が離心し人が命に従わなくなると、呉・蜀はその乱に乗じて号を僭称し、幽・并はその隙に乗じてその地を占拠した。これを平らげる術は唐・晋の失敗を反対にするだけである。まず賢を進め不肖を退けて時を清め、能ある者を用い能なき者を去ってその材を審らかにし、恩信・号令によって人心を結び、賞罰によって力を尽くさせ、恭倹節用によってその財を豊かにし、徭役を時に応じて課しその民を豊かにする。倉廩が実り器用が備わり人材が用いられるようになれば、彼の地の民も我が政化の広く行われることを知り、上下が心を同じくし力が強く財が足りて人は安んじ、将は和し、必ず取れる勢いとなる。
- そのとき、彼の情勢を知る者は間諜となることを願い、彼の山川を知る者は先導となることを願う。彼の民と此の民の心が同じくなれば、これは天意と同じである。天意と同じであれば成らない功はない。攻取の道は易きより始めるべきである。今、呉が最も図りやすい。東は海に至り南は江に至るまで撓すべき地は二千里、備えの薄い所から先に撓す。東に備えれば西を撓し、西に備えれば東を撓す。彼は必ず奔走してその弊を救おうとし、その奔走の間に彼の虚実・衆の強弱を知ることができる。虚を攻め弱を撃てば向かうところ前る者なしとなる。大挙せず、ただ軽兵をもってこれを撓すべきである。彼の人は怯弱で、我が師がその地に入れば必ず大発してこれに応じることを知る。しばしば大発すれば民は困窮し国は尽きる。一度大発させなければ我らはその利を得る。彼が尽き我が利すれば、江北の諸州はやがて国家の所有となる。江北を得れば彼の民を用い我が兵を揚げ、江南も平らげ難くはない。このようにすれば力を用いること少なくして功を収めること多い。呉を得れば桂・広はみな内臣となり、岷・蜀は飛書して召せばよい、来なければ四面から並び進み席巻して蜀は平らぐ。呉・蜀が平らげば幽は風を望んで至るであろう。ただ并だけは必死の寇であり恩信で誘うことはできず、必ず強兵をもって攻めるべきである。力がすでに尽き気がすでに喪われれば辺患とするに足りず、後図とすべきである。今、兵力は精練し器用は具備し、群下は法を知り諸将は命に従う、一年の後には辺を平らげることができよう。
- 朴自ら「臣は書生であり大事を論ずるに足りません、大体に達せず機変に合わないところがあれば、どうか陛下寛大にお許しください」と結んだ。
世宗の信任と多方面の才
- 朴は左諫議大夫・知開封府事に遷り、年内に左散騎常侍・端明殿学士に遷った。当時世宗は即位したばかりで征伐に鋭意し、群議を排して自ら高平で劉旻を破り、還ってますます兵を治め、慨然として天下を一統する志を抱いた。しばしば大臣を顧みて治道を問い、文学の士徐台符ら二十人を選んで「為君難為臣不易論」および「平辺策」を作らせた。朴もその選に入ったが、当時の文士はみな武を急ぐことを望まず、僭乱の平定は文徳を修めることを先とすべきだと考えた。ただ翰林学士陶穀・竇儀、御史中丞楊昭倹だけが朴とともに用兵の策を言い、朴は江淮を先に取るべきだと論じた。世宗はもとより朴を知っていたが、その議論の卓越なるを見てますますこれを奇とし、引いてともに天下の事を計議すると合わないことがなかった。ついに意を決して朴を用いた。
- 顕徳三年、淮を征する際、朴を東京副留守とし、還ると戸部侍郎・枢密副使を拝し、枢密使に遷った。四年、再び淮を征する際、朴に京師を留守させた。世宗の時、外は征伐に事え内は法度を修めたが、朴は人となり明敏で多才多智、当世の務めだけでなく陰陽・律暦の法にも通暁していた。顕徳二年、朴に大暦の校定を詔すると、朴は近世の符天流俗の不経の学を削り去り、通経・統三法をもって歳軌・離交・朔望・周変・率策の数を設け、日月五星の運行を歩んで「欽天暦」を作った。六年、また朴に雅楽の考正を詔すると、朴は十二律管を互いに吹いてもその真を得がたいと考え、京房の律準に依り、九尺の絃に十三の依管の長短寸分を柱に設け、七声を用いて均とした。楽が成って調和した。
- 朴は性格が剛果で、また世宗に信任され、その行うところに当時敢えて難ずる者はなかったが、人もまた誰も彼に加える(凌駕する)ことができなかった。世宗が淮を征するとき朴は京師に留まり、新城を広め道路を通し壮偉宏闊にした。今の京師の制度は多く朴の規画によるもので、その作った楽は今も用いられ変えることができない。その用兵の策を陳べたのは一時のものにとどまらず、諸国興滅の次第について「淮南が最も先に取れ、并は必死の寇であり最後に亡ぶであろう」と言ったが、その後宋が興り四方を平定するに及んで、并だけが独り最後に服したのは、みな朴の言のとおりであった。
- 六年春、世宗は朴を遣わし汴口を巡視させ斗門を作らせたが、還る途中、故相李穀の邸を過ぎたとき病が起こり座上で倒れ、輿で運ばれ帰って没した。年五十四。世宗はその喪に臨み王鉞で地を叩き大いに慟哭すること数度に及んだ。侍中を贈られた。