禁中での専横と誅殺
- 聶文進は并州の人である。若くして軍卒となり書算に巧みで漢の高祖の帳中に給仕した。高祖が太原に鎮すると押司官とし、高祖の即位後、領軍屯衛将軍・枢密院承旨を歴任した。周太祖が枢密使であったとき文進を大いに親信した。文進はしだいに横恣となり右領軍大将軍に遷り、入って謝すると諸将軍を召して朝堂で食事を設け、儀鸞・翰林・御厨に供帳・飲食を用意させたが、文進は平然としており有司も敢えて劾めなかった。
- 周太祖が鄴に鎮すると文進らが宮中で権を用い、楊邠らの殺害を謀るに及んで、文進は夜に詔書を作り中外を制置し、邠らがすでに死ぬと兵籍を点閲し殺戮を指揮し、これを自らの任とした。周太祖が鄴にあって邠らが害されたと聞いたとき、初めは文進が与っていないと思ったが、発せられた詔書がみな文進の手跡であると分かって大いに詬った。周の兵が京師に至り隠帝が北郊で敗れると、太后は懼れて文進に帝をよく衛るよう伝えさせたが、文進は「臣がここにいる限り、郭威に何ができましょうか」と答えた。慕容彦超が敗走し、帝が七里に宿った夜、文進は夜通しその徒と飲酒し歌い呼ばい平然としていた。翌日隠帝が弑されると、文進もまた殺された。