新五代史卷三十 漢臣傳第十八 王章

税制の苛政

  • 王章は魏州南楽の人である。州の孔目官であったとき、張令昭が節度使劉延皓を逐い章を事えさせたが、令昭が敗れると章の岳父白文珂が副招討李周と親しかったので、章を周に託し、周は章を橐駝の中に匿わせ、洛陽の周の邸に隠した。唐が滅ぶと章は出て河陽糧料使となった。漢の高祖が禁兵を典るようになると章を都孔目官に補し太原に従わせた。高祖の即位後、三司使検校太尉を拝した。高祖が崩じ隠帝が即位すると太尉同中書門下平章事を加えた。
  • 当時漢はまさに新たに造られたばかりで契丹の後を承け京師は空乏していたが、関西で三叛が起こり周太祖が西方で用兵すると、章の供饋によって軍旅が絶えることはなかった。しかし利を追求し下を剥ぎ取るので民は大いに苦しんだ。かつて民租一石を輸するのに雀鼠耗として一石に二斗を増して輸させ「省耗」と称した。緡銭の出入りはみな八十を一陌としていたが、章はその出す方の陌を減じた。州県の民で田を訴える者があれば必ず全州県を調べさせ隠田を括り出させたので、天下はこれによって大いに困窮した。特に文士を喜ばず、かつて人に「これらの輩は算木の一把を持ってもどちらが表かも分からない、国に何の益があろうか」と語った。
  • 百官の俸禄はみな供軍の余りから取り、堪えられない場合は有司に命じてその価を高く見積らせ、価が定まるとまた増した、これを「擡估」といった。章はなお満足せず、しばしばこれを増した。民で塩・礬・酒麹を犯す者があれば多少を問わずみな死罪とし、吏はこれに乗じて姦をなし、民は堪えることができなかった。まもなく史弘肇らと同日に殺された。