出仕と入相
- 楊邠は魏州冠氏の人である。若くして州の掌籍吏となった。租庸使孔謙が度支を領すると邠を勾押官に補し、孟・華・鄆三州の糧料院使を歴任した。漢の高祖に事えて右都押衙となり、高祖の即位後は枢密使を拝した。邠は小吏の出で文士を喜ばず、蘇逢吉らと内々に互いに排斥し合った。逢吉が李濤に上疏させ邠と周太祖の枢密使を罷めさせようとしたが、邠は李太后の前で泣いて訴え、太后は怒って濤の相を罷め、邠に中書侍郎兼吏部尚書同平章事を加えた。
- 当時逢吉・禹珪は私的な賄賂によって官吏を任じることが多く誤りが多かったが、邠が相となると事の大小を問わず必ず先に邠に示させ、邠が可とみなしてから入って奏上させ、逢吉らの所行を大いに改めた。門蔭による出身や諸司からの補吏はすべて罷めた。邠は吏事に長じていたが大体を知らず、国家を治めるには帑廩を充実させ甲兵を完備させればよいだけで、礼楽文物はみな虚器とみなした。ゆえに大政を執っても苛細を務め、前資官はすべて外に居ることを許さず、天下の旅行者はみな過所(通行証)を給されてから行くことができるようにしたので、旬日のうちに人情が大いに乱れた。邠は行うことができないと悟りやめた。
剛直と非業の死
- 邠はかつて王章とともに帝の前で事を論じたことがあり、帝が「事を行った後、言葉を漏らすでないぞ」と言うと、邠はすぐさま「陛下はただ声を潜めよ、臣がここにいる、聞く者はこれに戦慄するでしょう」と言った。李太后の弟業が宣徽使を求めると、帝と太后は私に邠に問うたが、邠はただ不可とした。帝が寵愛する耿夫人を后に立てようとしたときも邠は不可とし、夫人が死んで后の礼で葬ろうとしたときも邠は不可とした。これにより隠帝は大いに怒り、左右がその隙に乗じて讒言を構え、史弘肇らと同日に殺された。邠は人となり倹しく静かで、四方からの賄賂を却けはしないが、しばしばこれを帝に献上した。家にあっては賓客を謝絶したが、晩節にはやや縉紳に通じ客を門下に延いた。史伝に用がありそうな知識があると考え、吏に伝写させたが、いくらもせぬうちに禍に及んだ。周太祖の即位後、弘農王を追封した。