一生
- 劉贊は魏州の人である。父の玭は県令であった。贊が初めて学に就いたとき、青布の衫襦を着せられた。食事のたびに玭は自ら肉食し、別に蔬食を贊に牀下で食べさせ、「肉食は君の禄である。お前がこれを欲すれば学問に勤め禄を求めよ、私の肉はお前の食ではない」と言った。これより贊はますます学に励み、進士に挙げられ羅紹威の判官となり、去って租庸使趙巌の巡官となり、また孔謙の塩鉄判官となった。明宗の時、しばしば遷って中書舎人・御史中丞・刑部侍郎となり、法をもって職を守り権豪も私をもって干渉できなかった。
- 当時秦王従栄は兵を握って驕り過失が多く、言事する者は師傅を置いて輔導すべきと請うたが、大臣は王を畏れ敢えて事を決めず、王自らに選ばせることを請うた。秦王はすぐさま贊を請い、贊は秘書監を拝して秦王の傅となった。贊は泣いて「禍が至るであろう」と言った。秦王が請うた王府元帥の官属十余人はほとんどが軽薄で陰険な徒で、日々諂諛を献じて王を驕らせたが、贊だけは従容として道理をもって諷諫した。秦王がかつて賓客に座中で文を作らせたとき、贊は師傅の身をもって群小と並ぶことを恥じ、筆を執っても勉めて機嫌の悪い顔をした。秦王はこれを憎み、後に左右に贊が来ても取り次がぬよう戒め、贊もまた行かず、月に一度府に至るのみで退けば門を閉じ人事に交わらなかった。
- まもなく秦王は果たして敗死し、唐の大臣は王の属官のうち罪に座すべき者を議した。馮道は「元帥判官の任贊は秦王と平素の好しみもなく、職にあること一月に満たない。詹事の王居敏および劉贊はいずれも正直であることを王に憎まれた。河南府判官の司徒詡は病と告げ久しく家に居り、その謀に与かっていない。諮議参軍の高輦は王と最も親しく、輦は法により死に当たるが、その他は順に減刑すべきである」と言った。朱弘昭は「諸公はその意を知らぬのか、もし秦王が光政門に入ることができていたら、贊らをどう待遇したであろうか、我らにもまた家族があるではないか。かつ法には首従がある、今、秦王夫婦・男女はみな死んだのに贊らはその一身に止まる、これで十分幸いというべきだ」と言った。道らはこれを難じ、馮贇もまた不可であると争ったので、贊らはようやく死を免れることができた。ここに高輦は死罪と論じられ、任贊ら十七人はみな長流とされた。
- 初め贊は秦王の敗死を聞き、すぐに白衣で驢馬に乗って処分を待った。ある者が贊に官を奪われるだけだと告げると、贊は「どうして天子の後継ぎが殺されたのに賓僚が官を奪われるだけで済むことがあろうか、死なずに済めば幸いだ」と言った。まもなく贊は嵐州百姓に長流された。清泰二年、田里に帰るよう詔されたが、石会関に至って病没した。