一生
- 盧程はその世系がどのような家か分からない。唐の昭宗の時、程は進士に挙げられ塩鉄出使巡官となった。唐が亡ぶと乱を避け燕趙に赴き、服を変じて道士となり諸侯の間を遊説した。豆盧革が王処直の判官、盧汝弼が河東節度副使であったとき、二人はともに旧唐の名族で程と門地が相等しかったため、ともに推薦して河東節度推官とした。荘宗はかつて程に文書の起草を命じたが、程は辞退してできなかった。その後胡柳で戦い、掌書記の王緘が陣没すると、荘宗は軍を太原に還し酒宴を開き監軍の張承業に「私は一杯の酒で一人の書記を招こう」と言い、盃を挙げて巡官の馮道に授けた。程の位は道の上にあったが、かつて辞退してできなかったことがあるため用いられず、程は支使に遷された。程は大いに恨み「人を用いるのに門閥によらず田舎者を先にするのか」と言った。
- 荘宗の即位後、宰相を選ぶことを議したが、盧汝弼・蘇循はすでに死んでおり、次点は節度判官の盧質が拝されるべきところ、質は任事を楽しまず、豆盧革と程がともに旧唐の名族であるから相とすべきだと言った。荘宗は程を中書侍郎同平章事とした。当時朝廷は新たに造られたばかりで百度未だ備わっていなかった。程・革が拝命の日、輿に肩に担がれ先導・従者が道中で喧しく呼ばわった。荘宗はその声を聞き左右に問うと、左右は「宰相の輿が入門したのです」と答えた。荘宗は楼に登ってこれを見て笑い「いわゆる似て非なる者だ」と言った。
- 程は皇太后の冊を奉じ魏から太原に至るまで、上り下りの険しい山道を、至る所の州県で丁夫・官吏を駆り使い迎拝させ、程は輿に座ったまま平然とし、少しでも意に逆らえば必ず笞辱を加えた。ある者が程に驢馬の人夫を借りようとすると、程は興唐府に給するよう帖を出したが、府吏が前例がないと言うと、程は怒ってその吏の背を笞打った。少尹の任圜は荘宗の姉婿であったが、程を訪ねてその不可を訴えると、程は華陽巾をかぶり鶴氅を着て几に拠って事を決しており、圜を見て罵り「お前は何の虫けらか、妻の実家の力を恃みにするのか、宰相が州県から物を取るのに何の不可があるか」と言った。圜は答えずに去り、夜に博州まで馳せて荘宗に見えた。荘宗は大いに怒って郭崇韜に「朕は誤ってこの痴れ者を相としてしまった、よくも我が九卿を辱めたな」と言い、急ぎ自尽を命じた。崇韜もまた程を殺そうとしたが、盧質の力添えで解かれ、右庶子に罷められた。荘宗が洛陽に入る際、程は道中で落馬し中風となり没した。礼部尚書を贈られた。