生涯
- 毛璋、滄州の人。梁の末、戴思遠が横海軍節度使であった際、璋は思遠に軍校として仕えた。晋がすでに魏博を下すと、思遠は滄州を棄てて出奔し、璋は滄州を晋に降した。功により貝州刺史となった。璋は人となり胆勇があり、晋が梁と河上で対峙して以来、璋は数々の戦で功があった。荘宗が梁を滅ぼすと璋を華州節度使に拝したが、鎮にあって法に外れることが多く、議論する者はその異志を疑ったため昭義に鎮を移した。璋は初め命に抗おうとしたが、その判官辺蔚が切に諫めて説き聞かせたため命に従った。璋は累ねて藩鎮を歴任し、また華州にあった際、魏王継岌が蜀を伐って得た余財を得てすでに富み、益々驕り淫侈になり、かつて赭袍(皇帝の袍)を着て飲酒し、得た蜀の宦官に王衍の宮中の戯れを目の前で演じさせた。明宗はこれを聞いて嫌い、金吾上将軍に召した。東川の董璋が上書して璋がその子廷贇に書を持たせ西川に行かせたと告げ、その姦を疑った。明宗は人を遣わして廷贇を召還し、廷贇と璋をともに御史の獄に下した。廷贇は「実は璋の仮子には蜀に叔父がいて省みに行きたかっただけで、私の書はありません」と実を白状した。璋には名指しできる罪はなかったが、有司は璋が以前藩鎮の任にあった際に密かに異図を蓄えていたかもしれず、班行に処した際の行いも慎みに欠けたと議論し、璋の現任の官を停め私邸に帰らせた。
- 初め廷贇が蜀に行った際、その客の趙延祚が共に行き、召還され獄に下されるに及んで、延祚は璋の隠し事を多く探っておりこれを告発しようとしたため、璋は延祚に重い賄賂を約束して口を封じさせた。延祚は出た後、璋にその賄賂を求めたが璋が与えなかったため、延祚は台(御史台)に自ら訴え、璋は再び獄に下されて取り調べられたが実状はなかった。中丞の呂夢奇は「璋は以前すでに取り調べを経てすでに冤を晴らされたのに、延祚が賄賂を求めたことにより再び罪を織り込まれようとしている」と議論し、璋はこれにより次第に赦された。璋は白状する際、ある告発者が「夢奇は賄賂を受けて獄を尽く調べなかった」と言ったため、事は軍巡獄に移された。獄吏はその意を望んでこれを厳しく取り調べ、璋は延祚に賄賂を許したがまだ与えていなかったこと、かつて夢奇に馬を貸したが賄賂は受けていないことを白状した。璋は儒州への長流の罪に処されたが、まもなく所在地で自尽するよう命じられた。