生涯
- 謝彦章、許州の人。幼くして葛従周に仕え、従周はその敏慧を憐れんで養い子とし、兵法を授けた。従周は千銭を大盤に置いて行陣・偏伍の形を示し、出入進退の節を教え、彦章はこれをすべて会得した。壮年に及んで梁太祖に仕え騎将となった。この時賀瓌は歩卒を用いるのに善く、彦章は孟審澄・侯温裕と共に騎兵を率いるのに善かった。審澄・温裕の率いる兵は三千を超えなかったが、彦章は多くを率いてなお統率が行き届いた。彦章は末帝に仕え、累進して匡国軍節度使となった。貞明四年(918年)、晋が河北を攻めると、賀瓌が北面招討使とされ、彦章は排陣使として行台に屯した。彦章は将として儒士を礼遇することを好み、軍中にあってもかつて儒服を着たが、敵に臨んで衆を統率する際は粛然として将帥の威厳があり、左右の馳駆は風雨のように速く、晋人はその陣列の整然たるさまを望んで「謝彦章がここにいるに違いない」と語り合ったほど、敵中でもその名は重んじられた。賀瓌はこれを心に妬んだ。彦章と瓌が共に郊外を巡視した際、瓌は一地を指して彦章に「この地は丘が隆起しその中は平坦で、営栅を築くのによい地だ」と言った。まもなく晋兵がそこに栅を築くと、瓌は彦章が密かに晋に告げたと疑い、益々彦章を憎んだ。彦章は元来馬歩都虞候朱珪と確執があり、瓌は速戦を望んだが彦章は持重して敵を疲弊させることを求めたため、珪はそこで彦章を反乱を企てていると誣告した。瓌は朝に士に酒宴を賜る際、珪に伏兵を用いさせて彦章を殺させた。孟審澄・侯温裕も共に害された。