新五代史卷十一 周本紀第十一 太祖

郭威、邢州堯山の人(904–954年)。幼くして孤児となり潞州で軍卒となり、後に漢の高祖劉知遠に重用されて枢密使となった。隠帝に将相を誅殺されたことを機に挙兵して開封を制圧し、後周を建てた初代皇帝。

年表(12件)

出自と生い立ち

  • 太祖聖神恭粛文武孝皇帝は姓を郭氏といい、邢州堯山の人である。父簡は晋に仕えて順州刺史となったが、劉仁恭が順州を攻め破ったとき簡は殺された。子の威は幼くして孤児となり、潞州の人常氏に身を寄せた。潞州留後李継韜が勇敢な士を募って軍卒としたとき、威は十八歳で勇力をもって応募した。人となりは気性が強く酒を好み、継韜は特にこれを奇とした。威はかつて市に遊んだ際、市に屠者がいて常にその勇をもって市人を服させていたが、威は酔ってその屠者を呼び、几に肉を進めさせ、割き方が法にかなわないと叱った。屠者は自分の腹を披いて示し「お前は勇者だと言うが、私を殺せるか」と言った。威はすぐさま進んで刀を取り、これを刺し殺した。市中の者は皆驚いたが、威は頗る平然としていた。役人に捕らえられると、継韜はその勇を惜しんで密かに逃がし、後に再び召して麾下に置いた。継韜が晋に叛いて梁に附し、後に荘宗が梁を滅ぼすと継韜は誅死し、その麾下の兵はことごとく従馬直に隷属した。威は文書算術に通じていたので軍吏に補され、閫外春秋を好んで読み兵法を略知した。後に侍衛軍吏となり、漢の高祖が侍衛親軍都虞候となると特にこれを親愛した。以後、高祖が赴任した鎮には常に威を従わせた。契丹が晋を滅ぼし、漢の高祖が太原で挙兵して皇帝に即位すると、威を枢密副使に拝した。

乾祐元年(948年)

  • 正月、高祖の病が篤くなり、隠帝を威と史弘肇らに託した。隠帝が即位すると威を枢密使に拝した。この年三月、河中の李守貞・永興の趙思綰・鳳翔の王景崇が相次いで反した。隠帝は白文珂・郭従義・常思らを分遣して討たせたが、久しくして皆功がなかった。隠帝が威に「私はあなたを煩わせたいがよいか」と言うと、威は「臣はあえて願い出ることもできませんが、あえて辞することもできません。ただ陛下の命に従うのみです」と答えた。そこで威に同中書門下平章事を加え、西へ赴いて諸将を督させた。威は軍中で賓客を延見するときは襃衣博帯であったが、陣に臨むときは幅巾短後の軽装で士卒と変わらなかった。上から賜わったものや諸将との会射で得たものは、そのすべてを士卒に分け与えたので、将士は皆喜び楽しんだ。威は河中に至ると自ら城の東に柵を築き、常思は南に柵を築き、白文珂は西に柵を築き、五県の丁二万人を徴発して連塁を築き三柵を守らせた。諸将は皆「守貞は窮寇であり破るのは時間の問題だから、これほど民を労するには及ばない」と言ったが、威は聞き入れなかった。やがて守貞はしばしば兵を出して連塁を撃ち壊したが、威はそのたびに補修し、守貞もそのたびに再び出撃し、出撃のたびに必ず損失を出した。しばらくして城中の兵糧が尽きると、威は「もうよい」と言い、攻具を整えて期日を定め四面から攻め、その羅城を破った。守貞は妻子とともに自焚して死んだ。思綰・景崇も相次いで降った。隠帝は威の功を労って玉帯を贈り、検校太師・兼侍中を加えようとしたが、威は「臣は先帝に仕えて功臣を多く見ましたが、いまだかつて玉帯を賜わった者はありません」と辞退し、続けて「臣が幸いにも行伍を率い漢の威霊を借りて賊を破ることができたのは、あえて臣一人の功ではありません。将相の賢が朝廷を安んじ内外を撫し、糧餉を時に供したことによるものです」と言った。隠帝は威を賢とした。そこで楊邠・史弘肇・蘇逢吉・蘇禹珪・竇貞固・王章らを召し、みな玉帯を賜わった。威はまた功を大臣に推して爵賞を加えるよう請い、竇貞固に司空、蘇逢吉に司徒、蘇禹珪と楊邠に左右僕射を加えさせた。その後さらに「これは漢廷の親近の臣にすぎない。漢の宗室や天下の方鎮、遠くは荊・浙・湖南に至るまで、まだ及んでいない」と言い、これにより濫賞が天下に遍く行き渡った。この冬、契丹が辺境に侵寇すると、威は枢密使のまま北伐し魏州に至り、契丹は退いた。

乾祐三年(950年)

  • 二月、軍が還った。四月、威を鄴都留守・天雄軍節度使に拝し、なお枢密使のまま鎮に赴かせた。宰相蘇逢吉は枢密使が藩鎮を兼領すべきでないとし、史弘肇らとしばらく争ったが、結局枢密使のまま赴任することとなり、河北諸州はみな威の節度に従うよう詔された。隠帝は李業らと謀ってすでに史弘肇らを殺していたが、鎮寧軍節度使李弘義に詔して侍衛歩軍指揮使王殷を澶州で殺させ、また侍衛馬軍指揮使郭崇に詔して威と宣徽使王峻を魏で殺させようとした。詔書がまず澶州に至ると、弘義は事が成らないことを恐れ、かえって詔書を殷に示した。殷は弘義とともに人を遣わして威に告げた。ほどなく威を殺せとの詔がまた出て、使者も馳せ至ったが、威は詔書を匿し、枢密院の吏魏仁浦を寝室に召して謀った。仁浦は威に反することを勧め、留守の印を倒しに用いて改めて詔書を偽作させ、威が諸将校を誅すという偽の詔で将校らを激怒させた。将校たちはみな憤然として威に応じた。十一月丁丑、威はついに兵を挙げて河を渡った。隠帝は開封尹侯益・保大軍節度使張彦超・客省使閻晋卿らに兵を率いさせて威を拒ませ、また内養の鸗脱を遣わして威の動向を偵察させたが、鸗脱は威に捕らえられた。威はそこで脱に持たせて「李業らを縛って軍中に送るように」と上奏させた。隠帝は威の上奏を業らに示すと、業らはみな「威の反状はすでに明白です」と言い、ついに威の家族をことごとく京師で誅殺した。庚辰、威は滑州に至り、義成軍節度使宋延渥が漢に叛いて降った。壬午、封邱を犯した。甲申、泰寧軍節度使慕容彦超と劉子陂で戦い、彦超は敗れて兖州へ奔った。郭允明が反し、隠帝を趙村で弑した。丙戌、威は京師に入り、火を放って大いに掠奪した。戊子、百官を率いて明徳門で太后に朝し、嗣君を立てることを請うた。太后は文武百官・六軍将校に賢明の者を議して大統を継がせるよう令を下した。庚寅、威は百官を率いて明徳門に詣り、泰寧軍節度使贇(劉贇)を嗣として立てることを請い、太師馮道を遣わして贇を徐州に迎えさせた。辛卯、太后に臨朝聴政を請い、王峻を枢密使、翰林学士尚書兵部侍郎范質を副使とした。十二月甲午朔、威は北伐して契丹を討ち、滑州に軍した。癸丑、澶州に至って引き返した。王峻は郭崇に騎兵七百を率いさせて宋州で劉贇を迎え撃たせ、これを殺した。その将鞏廷美・楊温は徐州を守った。戊午、皐門に次った。漢の宰相竇貞固・蘇禹珪が来て勧進した。庚申、太后は制を下し威を監国とした。

廣順元年(951年)

  • 春正月丁卯、皇帝は即位し、大赦して改元し、国号を周とした。已已、漢の太后に尊号を上って昭聖皇太后とした。戊寅、漢の劉崇が太原で自立した(呉・蜀の諸国はみな自立して周に絶ったが書かない。この事のみ書くのは、周に屈しなかったことを示すためで、その理由は十国年譜の論に述べる)。已卯、馮道を中書令とした。二月辛丑、西州回鶻が使者・都督を遣わして来た。丁未、契丹が使者尼古察を遣わして来た。癸丑、寒食に蒲池で望祭した(蒲池は仏寺の名である)。丁已、尚書左丞田敏を契丹へ遣わした。回鶻が使者摩尼を遣わして来た。三月甲戌、武寧軍節度使王彦超が徐州を克した(鞏延美・楊温がこれに死んだことは書かない。事は贇の伝に見える)。夏四月甲午、夫人董氏を徳妃に立てた。五月辛未、祖考を皇帝に追尊し妣を皇后とした。高祖璟を睿和と諡し廟号を信祖とし、祖妣張氏を睿恭と諡した。曾祖諶を明憲と諡し廟号を僖祖とし、祖妣申氏を明孝と諡した。祖藴を翼順と諡し廟号を義祖とし、祖妣韓氏を翼敬と諡した。考を章粛と諡し廟号を慶祖とし、妣王氏を章徳と諡した。六月辛亥、范質および戸部侍郎判三司李穀を中書侍郎・同中書門下平章事とし、竇貞固・蘇禹珪を罷めた。癸丑、范質が枢密院事に参知した。丁已、宣徽北院使翟光鄴を枢密副使とした。秋七月戊寅、王峻の邸へ行幸した。八月壬寅、契丹が趙瑩の喪を弔いに来た。冬十月丙午、漢人が来討した(「討」という字には有罪の意を含み、漢が周を討つのは義の当然とするところである)。潞州から攻め入った(「潞州より」というのは、漢兵が本来京師で罪人を誅すべきところ、潞州から攻め入ったにすぎないことを示す。攻城の得失は本来書かないが、ここに書くのは漢の来討を許すことを示すためである)。十一月、王峻および建雄軍節度使王彦超がこれを拒んだ。十二月、慕容彦超が反した。

廣順二年(952年)

  • 春正月甲子、侍衛歩軍都指揮使曹敏を兖州行営都部署とした。庚午、高麗王昭が広評侍郎徐逢を使いに遣わして来た。二月庚寅、府州防禦使折徳扆が岢嵐軍を克した。三月丁已朔、寒食に郊外で望祭した。戊辰、内客省使鄭仁誨を枢密副使とし、翟光鄴を罷めた。夏五月庚申、東征し、李穀が東都を留守し、鄭仁誨を大内都点検とした。癸亥、曹州に次り流罪以下の囚人を赦した。乙亥、兖州を克した(彦超は井に投じて死んだので「伏誅」とは書かない)。壬午、兖州を赦した。六月乙酉朔、曲阜へ行幸し孔子を祠った。庚子、兖州から帰還した。秋九月乙丑、太僕少卿王演を高麗へ遣わした。契丹が辺境に侵寇した。

廣順三年(953年)

  • 春正月乙卯、麟州刺史楊重訓が漢に叛き来附した。閏月丙戌、回鶻が使者独呈相温を遣わして来た。二月甲子、王峻を貶して商州司馬とした。三月甲申、栄を晋王に封じた(「子」と書かないのは、栄が礼のうえで太祖の子とはなり得ず、「子」と書かなければ当然その本姓を書くべきところ、それも書かないのは周の人々がともに忌み憚ったためである)。丙戌、鄭仁誨を罷めた。已丑、棣州団練使王仁鎬を右衛大将軍・枢密副使とした。夏六月、大雨で水害があった。秋七月、契丹の盧台軍使張藏英が来奔した。九月、吐渾の党富達らが来た。冬十月庚申、馮道を奉迎神主使とした。十一月癸未、党項の使者呉帖磨五らが来た。十二月戊申、四廟の神主が西京から至り、これを西郊に迎えて太廟に祔した。壬申、天雄軍節度使王殷を殺した。乙亥、太廟で享した。

顯德元年(954年)

  • 春正月丙子朔、南郊に事あり、大赦して改元した。群臣は尊号を上って聖明文武仁徳皇帝とした。戊寅、鄴都を廃した。丙戌、鎮寧軍節度使鄭仁誨を枢密使とした。壬辰、端明殿学士戸部侍郎王溥を中書侍郎・同中書門下平章事とし、王仁鎬を罷めた。この日、皇帝は滋徳殿で崩じた(年五十一。「この日」と書くのは、上文の記事に続けて記すことで崩御の日を明示しないことを嫌ったためである)。