新五代史卷八 晉本紀第八 高祖
高祖聖文章武明徳孝皇帝、姓は石氏、名は敬瑭。父は西夷の出で晋王李克用に仕えた武人。明宗の娘婿となり軍功を重ね、河東節度使に至る。廃帝に反乱を疑われると契丹に援を求めて挙兵し、天福元年(936年)、契丹の後援により皇帝に即位、国号を晋(後晋)とした。その代償として燕雲十六州を契丹に割譲した。天福七年(942年)崩御。享年五十二。
出自と生い立ち
- 高祖聖文章武明徳孝皇帝の父臬捩鶏は、もと西夷の出であり、朱邪氏に従って唐に帰し、朱邪に従って陰山に居った。のち晋王李克用が雲州・朔州の間に起こると、臬捩鶏は騎射に長じ、常に晋王の征伐に従って功があり、官は洺州刺史に至った。臬捩鶏は敬瑭を生んだ。その姓は石氏というが、姓を得たいわれは不明である。
- 敬瑭は人となり沈厚寡言で、明宗はこれを愛し娘を娶わせた。これが永寧公主である。これにより常に明宗の帳下に隷し、左射軍と号された。荘宗がすでに魏を得ていた時、梁の将劉鄩が清平を急攻し、荘宗が馳せて救おうとしたが、兵がまだ陣立てを終えぬうちに鄩に不意を突かれた。敬瑭は十余騎とともに槊を横たえ馳せ撃ってこれを取り戻して帰った。荘宗はその背を撫でて壮とし、手ずから酥(乳製の珍味、当時の異民族が重んじたもの)を食べさせた。これにより名は軍中に鳴り響いた。天祐十五年(918年)、荘宗が胡柳で戦った際、前鋒の周徳威は戦死したが、敬瑭は左射軍をもって明宗に従い再び梁兵を撃ち破った。明宗が胡盧套・楊村で梁兵に敗れた際にも、敬瑭はしばしば明宗を危地から脱させた。
- 趙在礼の乱に際し明宗がこれを討伐すべく魏に至り兵変が起こると、明宗は初め自ら天子のもとに帰ろうとしたが、それをしなかったのは敬瑭が「軍が外で変を起こしたのに大将たる者だけが無事でいられましょうか。かつ躊躇は兵家の大忌です。速やかに行動されるに越したことはありません。願わくは騎兵三百を得て先に汴州を攻めさせてください。夷門は天下の要害であり、これを得れば事は成りましょう」と献策したためであった。明宗はこれをもっともとし、驍騎三百を与えると、黎陽を渡って先鋒となった。明宗はついに汴州に入り、荘宗は洛陽から後れて至ったが入ることができず、兵はみな潰えて去った。荘宗は西に還り、明宗は敬瑭を前鋒として氾水に向かわせ、あわせてその散卒を収めさせた。荘宗が弑逆に遭うと明宗は入って即位し、敬瑭を保義軍節度使に拝し竭忠建策興復功臣の号を賜り、六軍諸衛副使を兼ねさせた。陝にあって政を執るに廉をもって聞こえた。この時、諸侯の多くは法を守らず、鄧州の陶玘・亳州の李鄴はみな贓罪により死罪に処されたが、明宗は詔書を下し清廉な官吏である普州の安崇阮・洺州の張万進・耀州の孫岳らを褒めて天下に示し、敬瑭をその首とした。
天成二年(927年)
- 十月、汴州行幸に従い御営使となり、宣武軍節度使・侍衛親軍馬歩軍都指揮使に拝され、六軍副使は元のままとし、耀忠匡定保節功臣の号を改めて賜った。
天成三年(928年)以降の経歴
- 四月、天雄に鎮を移し同中書門下平章事・興唐尹に拝された。五月、駙馬都尉に拝された。董璋が東川で反すると、行営都招討使となったが下せずに還った。再び六軍諸衛副使を兼ね、河陽三城に鎮を移すことになったがまだ赴かぬうちに契丹・吐渾・突厥がみな入寇した。この時、秦王従栄が六軍を統べており、敬瑭はその身にいずれ禍が及ぶことを疑い、その副となることを望まず自ら出征を願い出て赴任した。制書が出て副使の任が落とされなかった時にも、なおも辞退を重ねた。明宗はたびたび大臣を責めて誰を遣わすべきか問うと、范延光・趙延寿らはついに敬瑭を推挙し、こうして河東節度使・大同彰国振武威塞等軍蕃漢馬歩軍総管に拝され六軍副使を落とされてはじめて赴任した。翌年明宗が崩じ、愍帝が即位すると、中書令を加えられた。三月、成徳に鎮を移した。清泰元年(934年)五月、太原に鎮を復し京師に来朝した。潞王従珂が鳳翔で反すると愍帝は出奔し、道中で敬瑭に遇った。敬瑭は帝の従者百余人を殺し、帝を衛州に幽閉して去った。廃帝が即位すると、敬瑭が必ず反するであろうと疑った。
天福元年(936年)
- 五月、天平に鎮を移されたが、敬瑭は果たしてこの命を受けず、その属官に「先帝は私に太原を授け、これを老いの地とせよと仰せられた。今、故なくして遷すのは、私を疑って反すると見なしているからである。かつ太原は地の険にして粟の多い所である。私は内に諸鎮を檄し、外に契丹に援を求めるべきではないか」と言った。桑維翰・劉知遠らはみなこれをもっともとし、そこで上表して廃帝の即位が不当であるとし、許王従益を明宗の嗣とするよう請うた。廃帝は詔を下し敬瑭の官爵を削奪し張敬達らに討伐を命じた。敬瑭は契丹に援を求めた。九月、契丹の耶律徳光が鴈門から入り唐兵と戦うと、敬達は大敗した。敬瑭は夜、北門を出て耶律徳光に見え、父子の約を結んだ。十一月丁酉、皇帝に即位した。国号を晋とし、幽・涿・薊・檀・順・瀛・漠・蔚・朔・雲・応・新・媯・儒・武・寰の十六州を契丹に入れた。己亥、大赦して改元した。掌書記桑維翰を翰林学士尚書礼部侍郎知枢密使事とした。閏月丙寅、翰林学士承旨尚書戸部侍郎趙瑩を門下侍郎、桑維翰を中書侍郎とし、ともに同中書門下平章事とし、枢密使を兼ねさせた。甲戌、趙徳鈞およびその子延寿が唐に叛いて来降すると、契丹はこれを鎖につないで帰った。己卯、河陽に次ると、節度使萇従簡が唐に叛いて来降した。辛巳、太原より至った。盧文紀・姚顗を罷めた。甲申、大赦し、張延朗・劉延朗を殺し、房暠を赦した。十二月乙酉、河陽に赴いた。追って王従珂を庶人に降した。丁亥、司空馮道を門下侍郎に兼ね同中書門下平章事とした。己丑、曹州指揮使石重立がその刺史鄭玩を殺した。辛卯、御札を下し直言を求めた。癸巳、鎮州の牙内都虞候祕瓊がその節度副使李彦珂を逐い、同州の裨将門鐸がその将楊漢賓を殺した。庚子、天平軍節度使王建立がその副使李彦贇を殺した。旱魃。
天福二年(937年)
- 春正月癸亥、安遠軍節度使盧文進が叛いて呉に降った。丁卯、天雄軍節度使范延光が斉州防禦使祕瓊を殺した。戊寅、兵部侍郎李崧を中書侍郎同中書門下平章事枢密使とした。唐の宗室の子を公に封じ、隋の酅公とあわせて二王の後とし、周の介公をもって三恪に備えた。二月丁酉、契丹の使者皇太子解里が来た。三月庚辰、汴州に赴いた。夏四月丁亥、囚人を赦し民の租賦を蠲(ゆる)した。趙瑩を契丹に使いさせた。辛卯、宣武軍節度使楊光遠が国を助ける銭を進めた。契丹の使者宮苑使李可興が来た。五月壬戌、御札を下し直言を求めた。丁丑、祖考を追尊して皇帝とし、妣を皇后とした。高祖璟を孝安と諡し廟号を靖祖、祖妣秦氏を孝安元と諡した。曽祖彬を孝簡と諡し廟号を粛祖、祖妣安氏を孝簡恭と諡した。祖昱を孝平と諡し廟号を睿祖、祖妣来氏を孝平献と諡した。考紹雍を孝元と諡し廟号を献祖、妣何氏を孝元懿と諡した。六月癸未、契丹の使者伊勒希巴が来た。天雄軍節度使范延光が反した。丁酉、矢を義成軍節度使符彦饒に伝えた。丁未、楊光遠を魏州四面行営都部署とした。東都巡検張従賓が反し、留守判官李遐はこれに死んだ。奉国都指揮使侯益・護聖都指揮使杜重威がこれを討った。従賓は河陽に寇し皇子重乂を殺し、河南に寇し皇子重信を殺した。秋七月、従賓は氾水関を陥し巡検使宋廷浩を殺した。壬子、右衛大将軍尹暉が叛いて呉に奔ろうとしたが果たせず誅に伏した。右監門衛大将軍婁継英が叛いて張従賓に降った。義成軍が乱れ、戍将侍衛馬歩軍都指揮使白奉進を殺した。甲寅、戍将奉国指揮使馬万が符彦饒を捕らえて京師に送り、命じてこれを赤岡で殺させた。乙卯、楊光遠を魏州行営都招討使とした。辛酉、杜重威は汜水関を克した。壬申、楊光遠は博州を克した。丙子、安州屯防指揮使王暉がその節度使周瓌を殺し、右衛上将軍李金全がこれを討った。八月丙申、静難軍節度使安叔千が添都馬を進めた。乙巳、死罪でない囚人および張従賓・符彦饒・王暉の残党を赦した。九月、楊光遠が粟を進めた。冬十月辛巳、甲兵の製造を禁じた。
天福三年(938年)
- 春二月戊戌、諸鎮がみな物を進めて国を助けた。三月壬戌、回鶻可汗王仁美が使者翟全福を遣わしてきた。丁丑、私に銅器を造ることを禁じた。秋七月辛酉、皇業銭をもって受命の璽を作った。八月戊寅、馮道および左僕射劉昫を契丹への冊礼使とした。壬午、澶州刺史馮暉が降った。丙戌、御署官の選任を許した。己丑、水害・旱害に遭った民の税を蠲した。辛丑、伶官を契丹に帰した。九月己酉、范延光を赦した。己未、静鞭官劉守威・金吾勘契官王殷・司天鶏叫学生殷暉を契丹に帰した。于闐の使者馬継栄が来た。回鶻の使者李万金が来た。己巳、魏州を赦し民の税を蠲した。この月、宣徽南院使劉処譲を枢密使とした。冬十月戊寅、契丹の使者中書令韓頻が来て冊を奉じ「英武明義皇帝」の号を上った。庚辰、汴州を東京に昇格させ、洛陽を西京、雍州を晋昌軍とした。戊子、右金吾衛大将軍馬従斌を契丹に使いさせた。己未、契丹の使者美楞が来た。戊戌、大赦した。庚子、李聖天を大宝于闐国王に封じた。十一月辛亥、広晋府を鄴都に昇格させた。壬戌、鋳銭の令を除いた。十二月丙子、子の重貴を鄭王に封じた。
天福四年(939年)
- 春正月、盗が唐の愍皇帝の墓を発いた。辛亥、澶州防禦使張従恩を枢密副使とした。深州の民李自倫の門閭を旌表した。三月乙巳、回鶻がその都督伊喇敦を使いに遣わしてきた。丙辰、調元暦を頒った。霊州の戍将王彦忠が懐遠城をもって反した。己未、彦忠は降ったが、供奉官斉延祚がこれを殺した。夏四月辛巳、回鶻可汗王仁美を奉化可汗に封じた。甲申、枢密使を廃した。秋七月丙辰、再び鋳銭を禁じた。閏月壬申、桑維翰を罷めた。八月己亥朔、河が博平で決壊した。西戎が涇州に寇し、彰義軍節度使張彦沢がこれを破りその首領野離羅蝦独を捕らえた。九月丁丑、契丹の使者訥黙庫が来た。癸未、李従益を郇国公に封じ唐の後を奉じさせた。丙戌、高麗王建がその広評侍郎邢順を使いに遣わしてきた。冬十二月乙亥、唐の高祖・太宗・荘宗・明宗・愍帝の廟を西京に立てた。戊子、契丹の使者楊珠が来た。吐蕃の罷延族が来附した。
天福五年(940年)
- 春正月丁卯朔、徳音を下し民の公私の債を除いた。己丑、回鶻の使者石海金が来た。夏四月甲子、契丹の興化王が来た。五月丙戌、安遠軍節度使李金全が叛いて唐(南唐)に附いた。六月癸卯、李昪はその将李承裕を安州に入らせた。金全は唐に奔った。安遠軍節度使馬全節は承裕と戦いこれを破った。丁巳、安州を克すると、承裕は雲夢に奔り、全節はこれを捕らえて殺した。秋八月丁酉、西郊で稼を閲した。己未、西京留守楊光遠が太子太師范延光を殺した。九月丁卯、翰林学士承旨戸部侍郎和凝を中書侍郎同中書門下平章事とした。辛巳、沙台で稼を閲した。冬十月丁未、契丹の使者錫里が来た。十一月丙子、冬至に初めて二舞を用いた。
天福六年(941年)
- 春正月戊寅、唐の叔虞を興安王、台駘を昌寧公に封じた。二月戊申、買宴銭を停めた。三月、民の二年から四年までの未納の税を除いた。夏四月己未、契丹の使者碩格が来た。五月、吐渾の首領白承福が来た。秋七月壬午、突厥の使者薛同海が来た。八月壬辰、鄴都に赴いた。開封尹鄭王重貴を東京留守、宣徽南院使張従恩を東京内外兵馬都監とした。壬寅、大赦した。甲寅、光禄卿張澄を契丹に使いさせた。九月乙亥、前安国軍節度使楊彦詢を契丹に使いさせた。丁丑、吐渾の使者白可久が来た。河が中都で決壊し沓河に入った。冬十月、河が滑州・濮州・鄆州・澶州で決壊した。山南東道節度使安従進が反した。十一月丁丑、西京留守高行周を南面軍前都部署としこれを討伐させた。十二月丙戌朔、鄭王重貴を広晋尹とし齊王に徙封した。先鋒都指揮使郭金海(郭海金)は安従進と唐州で戦いこれを破った。成徳軍節度使安重栄が反した。天平軍節度使杜重威を鎮州行営招討使とした。丙申、契丹が使者を遣わしてきた。戊戌、杜重威は安重栄と宗城で戦いこれを破った。
天福七年(942年)
- 春正月丁巳、鎮州を克し、安重栄は誅に伏した。広晋を赦した。庚午、契丹の使者達喇が来た。三月、帰徳軍節度使安彦威は滑州で決壊した河を塞いだ。閏月、天興で蝗が麦を食った。夏五月乙巳、皇太妃劉氏を尊んで皇太后とした。六月丙辰、吐渾の使者念醜漢が来た。乙丑、皇帝は保昌殿で崩じた。