新五代史卷七 唐本紀第七 愍帝・廢帝

廃帝李従珂、鎮州平山の人で、もとの姓は王氏。母が明宗に掠められた縁で養子となり従珂の名を賜る。驍勇で戦功を重ね潞王に封ぜられたが、愍帝の代に疑いをかけられ、鳳翔で挙兵して洛陽を陥し、愍帝(鄂王)を弑して清泰元年(934年)に即位した。在位三年、河東節度使石敬瑭の反乱と契丹の来援により晋安で唐軍が大敗し、清泰三年(936年)、洛陽で自焚して崩じた。

年表(5件)
  • 924年衛州刺史・突騎指揮使として石門を守り、明宗の挙兵を助ける
  • 932年鳳翔節度使となる
  • 934年鳳翔で挙兵して洛陽を陥し、鄂王(愍帝)を弑して皇帝に即位する
  • 935年生母魏氏を追尊して皇太后とする
  • 936年石敬瑭が契丹と結んで反し、晋安で唐軍が大敗。契丹軍が迫るなか自焚して崩御。享年五十一

出自と生い立ち(愍帝)

  • 愍皇帝は明宗の第五子従厚である。人となりは容姿豊かで寡言、礼を好んだ。明宗はその容貌が自分に似ていることから特にこれを愛した。天成二年(927年)、検校司徒をもって河南尹判六軍諸衛事に拝され、検校太保同中書門下平章事を加えられた。従厚の妃は孔循の娘である。安重誨は循が娘を従厚に嫁がせたことを怒り、天成三年(928年)、循の枢密使を罷めさせ、従厚を出して宣武軍節度使とした。翌天成四年(929年)、河東に鎮を移した。長興元年(930年)、従厚を宋王に封じ成徳に鎮を移し、長興二年(931年)、天雄に鎮を移して重ねて中書令を加えられた。長興四年(933年)十一月、秦王従栄が誅に伏すと、明宗の病は篤くなり、宦官孟漢瓊を遣わして王を鄴から召したが、まだ着かぬうちに明宗が崩じた。その喪を秘すること六日、十二月癸卯朔、西宮で喪を発した。皇帝は柩の前で即位し、群臣は東階で見え、喪の位に復した。丙午、西宮で成服した。庚戌、光政門楼に登り軍民を存問した。辛亥、司衣王氏を殺した。癸丑、初めて政を聴いた。乙卯、司儀康氏を殺した。丁巳、馮道を大行皇帝山陵使、戸部尚書韓彦惲を副、中書舎人王延を判官、礼部尚書王権を礼儀使、兵部尚書李麟を鹵簿使、御史中丞龍敏を儀仗使、左僕射権判河南府盧質を橋道頓逓使とした。丁卯、禫(たん、喪明けの祭り)を行った。

応順元年(934年)

  • 春正月壬申朔、広寿殿で視朝した。乙亥、契丹の使者都督黙爾根が来た。戊寅、大赦して改元し、楽を用いた。回鶻可汗王仁美が使者を遣わしてきた。沙州・瓜州が使者を遣わしてきた。乙未、朱弘昭・馮贇が銭を献じて山陵の造営を助けた。閏月丙午、皇太后を冊立した。甲寅、太妃王氏を冊立した。北京留守石敬瑭が銀・絹を献じて山陵の造営を助けた。二月庚寅、山陵の造営を視察した。鳳翔節度使潞王従珂が反した。辛卯、西京留守王思同を西面行営都部署、静難軍節度使薬彦儔を副とした。三月丙辰、思同の兵が潰え、厳衛指揮使尹暉・羽林指揮使楊思権はその軍をもって叛き従珂に降った。辛酉、侍衛親軍馬軍都指揮使朱弘実を殺した。癸亥、河陽三城節度使康義誠を鳳翔行営都招討使、王思同を副とした。西京副留守劉遂雍が叛いて従珂に降ると、思同は京師に奔り帰ろうとしたが果たせずこれに死んだ。丁卯、京城巡検使安従進が叛き、馮贇を殺し、朱弘昭は自殺した。従進はその二人の首を従珂に伝えた。戊辰、衛州に赴いた。

出自と生い立ち(廢帝)

  • 廃帝は鎮州平山の人である。もとの姓は王氏で、その家系は微賤であった。母の魏氏は若くして寡婦となり、明宗が騎将として平山を過ぎった折にこれを掠め得た。魏氏には子の阿三があり、すでに十余歳であった。明宗はこれを養って子とし、名を従珂とした。長じては容貌雄偉で謹信寡言、驍勇にして戦に長じ、明宗はこれを甚だ愛した。晋の兵が梁と河上で戦って以来、従珂はつねに戦功を立て、荘宗はその小字を呼んで「阿三は私と同年であるばかりでなく、その敢戦ぶりもまた私に似ている」と言った。同光二年(924年)、衛州刺史・突騎指揮使として石門を守った。明宗が趙在礼を討伐すべく魏より兵を返して南下すると、従珂は戍兵を率いて曲陽・盂県から常山に馳せ出て明宗を追った。明宗の南下は兵が少なかったが、従珂の兵が後に加わったことで軍の勢いは大いに振るった。明宗が入って即位すると従珂を河中節度使に拝し潞王に封じた。
  • この時、明宗はすでに春秋高く、王は諸子の中で最も年長であった。枢密使安重誨はこれを患い、詔を偽って河中の裨将楊彦温にこれを図らせようとした。王が黄龍荘で馬を閲していたところ、彦温はただちに門を閉じてこれを拒んだ。王は虞郷に留まってこれを聞に上げた。明宗は王を京師に召し還し、清化里の邸に居らせた。重誨はたびたび軍法を行うよう請うたが明宗は聞かなかった。のちに重誨が誅殺されると、王は起用されて左衛大将軍・西京留守となり、長興三年(932年)、鳳翔節度使となった。
  • 王の子重吉は明宗の代より禁兵を統べ控鶴指揮使であったが、愍帝が即位すると朱弘昭・馮贇が用事し、重吉の兵職を罷めて亳州団練使に出し、また王を北京留守に移すのに制書を降さず宣授とした。さらに李従璋をもってこれに代えた。かつて安重誨が罪を得て河中を罷められた際にも従璋がこれに代わり、重誨はそのために殺された。それゆえ王はますます自ら疑いを抱き、ついに城に拠って反した。愍帝は王思同を遣わして諸鎮の兵を会し討伐させたが、思同は戦に敗れて走り、諸鎮の兵はみな潰えた。

清泰元年(934年)

  • 三月丁巳、王は兵をもって東に向かった。庚申、長安に次った。西京副留守劉遂雍が唐に叛いて来降した。甲子、華州に次り、薬彦稠を捕らえた。丙寅、霊宝に次った。河中の安彦威・陝州の康思立が唐に叛いて来降した。己巳、陝州に次った。康義誠が唐に叛いて来降した。宣徽使孟漢瓊を殺した。愍帝は衛州に出居した。夏四月壬申、京師に入った。馮道は百官を率いて蔣橋で王を迎えたが、王は辞して会わず、西宮に入って哭し、それから群臣に見えると、道は拝礼し王もこれに答礼した。至徳宮に入って居った。癸酉、太后の令をもって天子を降して鄂王とし、王に監国を命じた。乙亥、皇帝に即位した。丙子、河南の民財を率いて軍に賞した。丁丑、民家を借りて課役を五月に賞軍のため免じた。戊寅、鄂王(愍帝)を弑した。慈州刺史宋令詢はこれに死んだ。乙酉、大赦して改元した。戊子、康義誠および薬彦儔を殺した。五月丙午、端明殿学士左諫議大夫韓昭胤を枢密使、荘宅使劉延朗を枢密副使とした。庚戌、馮道を罷めた。天雄軍節度使范延光を枢密使とした。甲寅、勧進した選人・宗子に官を賜った。六月庚辰、范延光および索自通の邸に幸した。秋七月辛亥、太常卿盧文紀を中書侍郎同中書門下平章事とした。丁巳、沛夫人劉氏を立てて皇后とした。八月辛未、尚書左丞姚顗を中書侍郎同中書門下平章事とした。御署官の選(就任)を許した。九月、契丹が辺境に寇した。冬十月戊寅、李愚・劉昫を罷めた。十二月己亥、雄武軍節度使張延朗を中書侍郎同中書門下平章事とした。契丹が雲州に寇した。庚寅、龍門に幸した。旱魃。

清泰二年(935年)

  • 春二月甲戌、范延光を罷めた。己丑、夫人魏氏を追尊して皇太后とした。三月辛丑、忠武軍節度使趙延寿を枢密使とした。夏五月辛卯、宣徽南院使劉延皓を枢密使とした。契丹が辺境に寇した。六月癸未、群臣が添都馬を献じた。秋七月丁酉、回鶻可汗王仁美がその都督陳福海を使いに遣わしてきた。劉延皓を罷めた。九月己酉、刑部尚書房暠を枢密使とした。乙卯、渤海が使者を遣わしてきた。

清泰三年(936年)

  • 春正月乙未、百済が使者を遣わしてきた。丁未、子の重美を雍王に封じた。三月丙午、翰林学士礼部侍郎馬胤孫を中書侍郎同中書門下平章事とした。河東節度使石敬瑭が反した。夏五月乙卯、建雄軍節度使張敬達を太原四面都招討使、義武軍節度使楊光遠を副とした。戊申、先鋒指揮使安審信が叛いて石敬瑭に降った。己酉、振武戍将安重栄が叛いて敬瑭に降った。壬子、天雄軍屯駐捧聖都虞候張令昭がその節度使劉延皓を逐った。六月癸亥、令昭を右千牛衛将軍権知天雄軍事とした。甲戌、宣武軍節度使范延光を天雄軍四面招討使とした。秋七月戊申、魏州を克した。壬子、張令昭が誅に伏した。癸丑、彰聖指揮使張万廸が叛いて石敬瑭に降った。八月戊午、契丹の使者美楞が来た。九月甲辰、張敬達は契丹と太原で戦い敗績した。契丹は敬達を晋安に囲んだ。戊申、河陽に赴いた。冬十月壬戌、馬を徴発し民を籍して兵とした。十一月戊子、盧龍軍節度使趙徳鈞を行営都統とした。丁酉、契丹が晋(石敬瑭)を立てた。閏月甲子、楊光遠が張敬達を殺しその軍をもって叛き契丹に降った。甲戌、契丹および晋人が潞州に至った。丁丑、河陽より至った。辛巳、皇帝は崩じた。

史論

  • ああ、君臣の際はまことに難しいものというべきである。明晰な者は事の萌す前にこれを慮って先んじて知り、暗愚な者は事がすでに及ぶことを告げられても懼れない。それゆえ事に先んじて言えば、たとえ忠であっても信じられず、事が至ってから悔いても及ぶものではない。安重誨はわずかに潞王(従珂)の禍を独り見抜きながら、その謀は良からず、ついに身を殞(おと)し一族を滅ぼすに至った。その禍の兆しはこの時より起こり、愍帝の死に至るのである。
  • 愍帝の亡骸は徽陵の域内に穴を掘って葬られ、その塚は一壠にすぎず、道行く人でこれを見る者はみな悲しんだという。明宗にもし知る心があったならば、重誨に対して恥じるところがあったであろう。哀しいことである。