新五代史卷五 唐本紀第五 莊宗下

李存勗、克用の長子。父の死後太原で王位を継ぎ、梁との抗争を制して同光元年(923年)に皇帝に即位、国号を唐(後唐)とし梁を滅ぼした。しかし即位後は治政を怠り、同光四年(926年)、明宗の反乱と従馬直の変により崩じた。享年四十三。

年表(8件)
  • 908年太原で王位に即き、叔父克寧の謀叛を誅する
  • 911年柏郷で梁軍を大破する
  • 914年燕王劉守光とその父仁恭を殺し、趙王・北平王に尚書令として推される
  • 915年魏州の乱を鎮め、魏博節度使を兼領する
  • 918年胡柳の戦いで周徳威が戦死するも、梁軍を撃退する
  • 921年河中節度使朱友謙ら諸鎮より皇帝即位を請われる
  • 923年皇帝に即位し国号を唐とする。同年梁を滅ぼす
  • 926年郭崇韜・睦王存乂を殺害。趙在礼の乱を機に明宗が反し、従馬直の変により崩御。享年四十三

出自と生い立ち

  • 存勗は克用の長子である。かつて克用が孟方立を邢州で破って上党に軍を還したとき、三垂崗で酒宴を開き、伶人が「百年歌」を奏でて衰老の一節に至ると、声辞はことに悲しく、座にある者はみな悽愴とした。この時存勗は側にあってわずか五歳、克用は慨然として鬚をひねり、指さして笑い「私はもう老いた。この子は奇児である。二十年ののち、この子は私に代わってこの地で戦うことができるだろうか」と言った。
  • 存勗は十一歳の時、克用に従って王行瑜を破り、京師に献捷の使者として遣わされた。昭宗はその容貌を異とし、鸂鶒(けいちょく)の巵・翡翠の盤を賜い、その背を撫でて「お前には奇表がある。のちに必ず富貴となろうが、わが唐家を忘れるな」と言った。長じては騎射に長じ胆勇人に過ぎ、しだいに『春秋』を習いその大義に通じ、ことに音声・歌舞・俳優の戯れを好んだ。

天祐五年(908年)

  • 正月、太原で王位に即いた。叔父の克寧は都虞候李存質を殺した。寵臣の史敬鎔が克寧の謀叛を告げると、二月、これを捕らえて殺した。そこで先王(克用)の喪と叔父の変事を周徳威に告げると、徳威は乱柳から太原に軍を還した。梁の夾城の兵は晋に大喪があったと聞き、徳威の軍が去ろうとしているとしだいに気を緩めた。王は諸将に「梁人はわが大喪を幸いとし、私が若く新たに立ったばかりで何もできまいと考えている。その怠りに乗じて撃つべきである」と言い、兵を出して上党に趣いた。三垂崗に至ると「ここは先王が酒宴を開かれた所である」と歎じた。折しも天が大霧で昼も暗く、兵は霧の中を進んで夾城を攻めこれを破り、梁軍は大敗した。凱旋して廟に告げた。九月、蜀王王建・岐王李茂貞と楊崇本が梁の大安を攻め、晋もまた周徳威を遣わして晋州を攻め、神山で梁軍を破った。

天祐六年(909年)

  • 劉知俊が梁に叛き晋に援を乞うと、王は自ら陰地関に至り、周徳威を遣わして晋州を攻めさせ、蒙阬で梁軍を破った。

天祐七年(910年)

  • 冬、梁は王景仁を遣わして趙を攻めさせた。趙王王鎔が援を乞うと、諸将はみな鎔の詐りを疑い出兵に反対したが、王は聞き入れず趙を救った。

天祐八年(911年)

  • 正月、柏郷で梁軍を破り、首級二万を斬り、その将校三百人・馬三千匹を獲た。邢州に進攻したが下せず、兵を留めて包囲し、魏を攻めに向かった。別に周徳威を遣わして梁の夏津・高唐を徇(じゅん)し、博州を攻め東武・朝城を破り、ついに黎陽・臨河・淇門を撃ち新郷・共城を掠めた。燕王劉守光は晋が梁を攻め深入りしていると聞き、大いに兵を整え晋を助けると声言したので、王はこれを患い軍を還した。七月、趙王王鎔と承天軍で会した。劉守光は燕で帝を称した。

天祐九年(912年)

  • 正月、周徳威を遣わして鎮・定と会し燕を攻めさせた。守光は梁に救いを求め、梁軍は趙を攻め棗彊を屠ったが、李存審がこれを撃ち走らせた。八月、朱友謙が河中をもって梁に叛き来降した。梁は康懐英を遣わして友謙を討たせたが、友謙は再び梁に臣従しつつも密かに晋に附いた。

天祐十年(913年)

  • 十月、劉守光が降を請うたが、王が幽州に赴くと守光は約に背いて降らず、これを攻め破った。

天祐十一年(914年)

  • 燕王劉守光を太原で殺し、その父仁恭を鴈門で用いた(心を剖いて墓に祭ったのである)。これにより趙王王鎔・北平王王処直は冊を奉じて王を尚書令に推し、初めて行台を建てた。七月、梁の邢州を攻め、張公橋で戦い晋軍は大敗した。

天祐十二年(915年)

  • 魏州で軍が乱れ、賀徳倫は魏・博の二州をもって梁に叛き来附した。王は魏州に入り、永済に至ってその乱の首謀者張彦を誅し、その兵五百を自らの護衛として帳前銀鎗軍と号した。六月、王は魏博節度使を兼領し、徳州を取った。七月、澶州を取った。劉鄩は洹水に軍し、王は百騎を率いてその陣営を偵察したところ、鄩の伏兵に幾重にも囲まれ、囲みを決して脱するも七、八騎を失った。八月、梁は再び澶州を取り、晋軍は鄩と莘で対陣した。晋軍はたびたび挑戦したが鄩は壁を閉じて出なかった。

天祐十三年(916年)

  • 正月、王は李存審を莘に留め西に帰ると声言した。鄩は晋王が去ると聞いて兵を引いて魏を撃ち城の東を攻めた。王は貝州まで行きながら引き返して鄩を撃ち大敗させ、故元城まで追ってまたこれを破ると、鄩は黎陽に逃げた。三月、梁の衛州を攻めその刺史米昭を降し、磁州を克しその刺史靳昭を殺した。四月、洺州を克した。八月、邢州を囲みその節度使閻宝を降した。梁の張筠は相州を棄て、戴思遠は滄州を棄てて逃げたので、ついに二州を取った。貝州の人々は梁の守将張源徳を殺して城をあげて降った。契丹が蔚州に寇し、振武節度使李嗣本を捕らえた。

天祐十四年(917年)

  • 契丹が新州に寇し、ついに幽州に寇したが、李嗣源がこれを撃ち走らせた。冬、梁の謝彦章は楊劉に軍した。十二月、楊劉を攻め、王は自ら薪を負って壕を埋め、ついにこれを破った。

天祐十五年(918年)

  • 正月、梁と晋は楊劉で相拒み、彦章は河水を決して晋軍を隔てた。六月、水を渡って彦章を撃ちその四寨を破った。八月、魏で大閲を行い、盧龍・横海・昭義・安国および鎮・定の兵十万、馬一万匹を合わせ、麻家渡に軍した。謝彦章は行台に軍した。十二月、軍を臨濮に進めると、梁軍がこれを追い胡柳で戦い、晋軍は大敗して周徳威はこれに死んだ。梁軍は夕暮れに土山で休むと、晋軍は再び撃ってこれを大破し、ついに徳勝に軍して夾寨を築いた。

天祐十六年(919年)

  • 正月、王は盧龍軍節度使を兼領した。梁の王瓚は徳勝南城を攻めたが下せなかった。十月、徳勝北城を広げた。十二月、河南で梁軍を破った。

天祐十七年(920年)

  • 朱友謙が同州を襲うと、梁は劉鄩を遣わしてこれを撃たせたが、李存審は同州で梁軍を破った。

天祐十八年(921年)

  • 正月、魏州の僧伝真が「唐受命の宝」なるものを一つ献じた。趙の将張文礼がその君鎔を弑し、文礼は王に命を請うてきた。二月、文礼を鎮州兵馬留後とした。三月、河中節度使朱友謙・昭義軍節度使李嗣昭・横海軍節度使李存審・義武軍節度使王処直・安国軍節度使李嗣源・鎮州兵馬留後張文礼領天平軍節度使閻宝・大同軍節度使李存璋・振武軍節度使李存進・匡国軍節度使朱令徳らは、王に皇帝の位に即くよう請うたが、王は三度これを辞し、友謙らが三度請うと、王は「私はこれを考えよう」と言った。
  • 八月、趙王王鎔の旧将符習および閻宝・史建瑭らを遣わして張文礼を鎮州に攻めさせ、建瑭は趙州を取ったが、張文礼は病没しその子処瑾が城を閉じて拒み守った。九月、建瑭は戦死した。十月、梁の戴思遠は徳勝北城を攻めたが、李嗣源はこれを戚城で破った。王処直は契丹に叛いて附き、その子都は処直を幽閉して王に来附した。十二月、契丹が涿州に寇し、ついに定州に寇した。

天祐十九年(922年)

  • 正月、契丹を新城・望都で破り、追撃して幽州に至った。三月、閻宝は鎮州で敗れ、李嗣昭がこれに代わった。四月、嗣昭が戦死し、李存進がこれに代わった。八月、梁は衛州を取った。九月、存進は鎮の人を東垣で破ったが、存進は戦死した。十月、李存審は鎮州を克し、王は成徳軍節度使を兼領した。

同光元年(923年)

  • 春三月、李継韜が潞州をもって梁に叛き附いた。夏四月己巳、皇帝に即位し、大赦して改元し国号を唐とした。行台の左丞相豆盧革を門下侍郎、右丞相盧程を中書侍郎とし、ともに同中書門下平章事とした。中門使郭崇韜・昭義監軍張居翰を枢密使とした。魏州を東京、太原を西京、鎮州を北都とした。閏月、祖考を追尊して皇帝とし、妣を皇后とした。曽祖執宜・祖妣崔氏はともに昭烈と諡し廟号を懿祖、祖国昌・祖妣秦氏はともに文景と諡し廟号を献祖、考(克用)は武と諡し廟号を太祖とした。太原に廟を立て、唐の高祖・太宗・懿宗・昭宗とあわせて七廟とした。壬寅、李嗣源が鄆州を取った。
  • 五月辛酉、梁人が徳勝南城を取った。六月、王彦章と新塁で戦いこれを破った。この月、盧程を罷めた。秋八月、梁人が澤州を克した。守将の裴約はこれに死んだ。九月戊辰、李嗣源が王彦章と遞坊で戦いこれを破った。冬十月壬申、鄆州に赴き梁を襲った。甲戌、中都を取った。丁丑、曹州を取った。己卯、梁を滅ぼした。敬翔は自殺した。丙戌、鄭珏を莱州司戸参軍、蕭頃を登州司戸参軍に貶し、李振・趙巖・張漢傑・朱珪を殺してその一族を滅ぼした。己丑、徳音を下し死罪の囚人を降し流罪以下を原(ゆる)した。十一月乙巳、北都を復して鎮州とし、太原を北都とした。丙辰、汴州を復して宣武軍とした。丁巳、尚書左丞趙光胤を中書侍郎、礼部侍郎韋説を同中書門下平章事とした。戊午、新羅国王金朴英が使者を遣わしてきた。辛酉、永平軍を復して西都とした。甲子、洛京に赴いた。十二月庚午朔、汴州より至った。辛巳、李継韜が誅に伏した。継韜の弟継達がその兄継儔を潞州で殺した。壬辰、伊闕で狩りをした。

同光二年(924年)

  • 春正月、河南尹張全義および諸鎮が暖殿の物を進めた。己酉、唐の宦官を求めた。庚戌、新羅国王金朴英およびその泉州節度使王逢規がみな使者を遣わしてきた。乙卯、渤海国王大諲譔が大禹謨を使いに遣わしてきた。庚申、河陽に赴いた。辛酉、河陽より至った。丁卯、七廟の神主が太原より至り、太廟に祔(ふ)し、太微宮に朝献した。戊辰、太廟に享した。二月己巳朔、南郊で祀りを行い、大赦した。癸酉、群臣は尊号を上って昭文睿武光孝皇帝とした。戊寅、李嗣源の邸に幸した。癸未、劉氏を立てて皇后とした。三月己酉、党項が来た。庚戌、汴州平定・入洛・南郊立仗に従った軍士らの功臣を賜わった。庚申、工部郎中李涂を検視諸陵使とした。潞州の将楊立が反した。夏五月壬寅、教坊使陳俊を景州刺史、内園栽接使儲徳源を憲州刺史とした。丙辰、渤海国王大諲譔が使者を遣わしてきた。丙寅、李嗣源が潞州を克した。六月丙子、楊立が誅に伏した。己丑、回紇王仁美を英義可汗に封じた。秋七月己酉、雷山に赴き天神を賽(まつ)った。八月、大雨が降り続き河が溢れた。九月壬子、城門に水を置いて熒惑(火星)を禳(はら)った。甲寅、郭崇韜の邸に幸した。丙辰、黒水(黒水靺鞨)が使者を遣わしてきた。冬十月癸未、左熊威軍将趙暉の妻が一度に三男子を産んだ。十一月癸卯、伊闕で狩りをした。丙午、伊闕より至った。丁巳、回鶻の使者都督安千想が来た。十二月庚午、皇后とともに張全義の邸に幸した。

同光三年(925年)

  • 春正月庚子、東京(魏州)に赴き、即位壇を毀して鞠場とした。二月己巳、新場で鞠を聚めた。乙亥、王莽河で雁を射た。辛巳、突厥渾解楼・渤海国王大諲譔がみな使者を遣わしてきた。北郊で雁を射た。乙酉、郭泊で鴨を射た。庚寅、北郊で雁を射た。三月乙未、寒食に西郊で望祭を行った。庚申、東京より至った。辛酉、東京を改めて鄴都とし、洛京を東都とした。夏四月乙亥、皇后とともに郭崇韜・朱漢賓の邸に幸した。旱魃。庚寅、趙光胤が薨じた。五月丁酉、皇太妃が薨じ朝を廃すること五日であった。己酉、黒水・女真がみな使者を遣わしてきた。六月辛未、宗正卿李紓を昭宗・少帝改卜園陵使とした。馬の徴発を行った。秋七月壬寅、皇太后が崩じた。八月癸未、河南県令羅貫を殺した。九月庚子、魏王継岌を西川四面行営都統、郭崇韜を招討使として蜀を伐たせた。六月から雨が続き、この月丁巳、尖山で雁を射た。冬十月壬午、奚・吐渾・突厥がみな使者を遣わしてきた。戊子、貞簡太后を坤陵に葬った。十一月丁未、高麗が使者を遣わしてきた。己酉、蜀王衍が降った。郭崇韜は王宗弼およびその弟宗渥・宗訓を殺しその一族を滅ぼした。十二月己卯、白沙で狩りをした。癸未、白沙より至った。閏月辛亥、弟の存美を邕王、存霸を永王、存礼を薛王、存渥を申王、存乂を睦王、存確を通王、存紀を雅王に封じた。

同光四年(926年)

  • 春正月壬戌、死罪以下の囚人を降した。甲子、魏王継岌が郭崇韜およびその三子を蜀で殺した。戊寅、契丹の使者美楞嘉哩が来た。庚辰、その弟睦王存乂および河中護国軍節度使李継麟を殺しその一族を滅ぼした。乙酉、沙州の曹義金が使者を遣わしてきた。丙戌、回鶻阿咄欲が使者を遣わしてきた。丁亥、李継麟の将史武・薛敬容・周唐殷・楊師太・王景・来仁・白奉国を殺し、みなその一族を滅ぼした。
  • 二月己丑、宣徽南院使李紹宏を枢密使とした。癸巳、鄴都軍将趙在礼が貝州で反した。甲午、冷泉で狩りをした。趙在礼が鄴都を陥した。武寧軍節度使李紹栄がこれを討った。邢州軍将趙太が反し、東北面招討使李紹真がこれを討った。甲辰、成徳軍節度使李嗣源が趙在礼を討った。三月、趙太が誅に伏した。李嗣源が反した。博州守将翟建が自ら刺史を称した。甲子、王衍を殺しその一族を滅ぼした。乙丑、汴州に赴いた。壬申、滎沢に次(やど)ると、龍驤指揮使姚彦温が前鋒軍をもって叛き李嗣源に降り、汴州に入った。甲戌、万勝より至った。従馬直指揮使郭従謙が反した。夏四月丁亥朔、皇帝は崩じた。