新五代史卷四 唐本紀第四 莊宗上
李克用、沙陀の出で朱邪を姓としたが、のち唐より李姓を賜る。黄巣討伐の功により隴西郡王・河東節度使となり、梁の朱全忠と対立を続けた。晋王に封ぜられ、契丹の耶律阿保機と兄弟の約を結ぶなど北方に勢威を張ったが、天祐五年(908年)に死去。子の存勗(荘宗)が後を継ぐ。
出自と生い立ち
- 荘宗光聖神閔孝皇帝の祖先は、もと号を朱邪といい、西突厥から出て、後世みずから沙陀と号し朱邪を姓とした。唐の徳宗の時、朱邪盡忠なる者が北庭の金満州にあった。貞元中、吐蕃の賛普が北庭を攻め陥し、盡忠を甘州に徙してこれに役属させた。のち賛普が回鶻に敗れると、盡忠とその子執宜は東に走ったが、賛普は怒ってこれを追い、石門関に及んで盡忠は戦死し、執宜だけが逃れて唐に帰し、塩州に居って河西節度使范希朝に隷した。希朝が太原に鎮を移すと執宜はこれに従い、定襄の神武川の新城に居った。その部落一万騎はみな驍勇で騎射に長じ、沙陀軍と号した。執宜が死ぬとその子を赤心という。
- 懿宗の咸通十年、神策大将軍康承訓が十八将を統べて龎勲を徐州に討った際、朱邪赤心は太原行営招討沙陀三部落軍使として従い、勲を破った功により単于大都護・振武軍節度使に拝され、姓名を李国昌と賜り、宗室の属籍に列せられた。沙陀はもとより強盛で、国昌も功を恃んでますます驕慢となった。懿宗はこれを患い、咸通十三年、国昌を雲州刺史・大同軍防禦使に徙したが、国昌は病と称して命に従わなかった。国昌の子克用はことに騎射に巧みで、仰いで双鳧を射当てることができ、雲州守捉使であった。国昌がすでに命に拒んでいたところ、克用は大同軍防禦使段文楚を殺して雲州に拠り自ら留後を称した。唐は太僕卿盧簡方を振武節度使とし、幽州・并州の兵を会して討伐させたが、簡方は鳳州に至って軍が潰れた。これにより沙陀は代北を侵掠し辺患となった。
乾符五年(878年)
- 翌年(僖宗即位の年)、天子は前太原節度使李業が沙陀に恩があったが、業はすでに死んでいたので、その子鈞を霊武節度使・宣慰沙陀六州三部落使とし招輯させ、克用を大同軍防禦使に拝した。しばらくして国昌が党項・吐渾を撃ちに出た隙に、赫連鐸が振武を襲い破った。克用はこれを聞き、雲州から国昌を迎えに行ったが、雲州の人々もまた関を閉じてこれを拒んだ。国昌父子は帰る所がなくなり、蔚州・朔州の間を掠めて兵三千を得、国昌は蔚州に入って保ち、克用は新城に還って拠った。僖宗は鐸を大同軍使に拝し、李鈞を代北招討使として沙陀を討たせた。
- 乾符五年、沙陀は遮虜軍を破り、また岢嵐軍を破った。唐兵はしばしば敗れ、沙陀はこれによりますます勢いを増し、北は蔚州・朔州に拠り、南は忻州・代州・嵐州・石州を侵し、太谷にまで至った。
廣明元年(880年)
- 招討使李琢は幽州の李可挙・雲州の赫連鐸と会して沙陀を撃ち、克用は可挙と雄武軍で相拒んだ。叔父の友金が蔚州・朔州をもって琢に降ったと聞くと、克用は急ぎ引き返した。可挙は薬児嶺まで追撃してこれを大破し、琢の軍も夾撃してさらに蔚州でこれを破ると、沙陀は大潰し、克用父子は逃れて達靼(タタール)に入った。克用は少壮より驍勇で、軍中で李鵶児と号され、その一目が眇であったため、貴顕となってからは独眼龍とも号された。その威名は代北に鳴り響いた。達靼にあった間、鬱々として志を得ず、また常に自分の身を図られるのを恐れ、しばしば群豪に従って射猟し、木に針をかけたり馬鞭を百歩に立てたりしてこれを射れば必ず命中し、群豪はみな神と服した。
中和元年(881年)
- 黄巣がすでに京師を陥した。中和元年、代北起軍使陳景思は沙陀の先に降った者や吐渾の安慶らとともに一万人を発して京師に赴かせたが、絳州に至って沙陀軍が乱れ大掠して還った。景思は沙陀は克用でなければ制しきれないと考え、詔書をもって達靼にいる克用を召し、承制して代州刺史・鴈門以北行営節度使とした。克用は蕃漢の兵一万を率いて石嶺関を出、太原を過ぎて軍費を求めたが、節度使鄭従讜が銭千緡・米千石を与えたにとどまったため、克用は怒り兵を縦にして大いに掠奪して還った。
中和二年(882年)
- 十一月、景思・克用はふたたび歩騎一万七千を率いて京師に赴いた。
中和三年(883年)
- 正月、河中に至り乾坑に進み屯すると、巣の党は「鵶児軍が来た」と驚いた。二月、巣の将黄鄴を石堤谷で破った。三月、また趙章・尚譲を良田坡で破り、横たわる屍は三十里に及んだ。この時、諸鎮の兵はみな長安に会し、渭橋で大戦して賊は敗れて城に走り入り、克用は勝ちに乗じてこれを追い、光泰門から先に入り、望春宮・昇陽殿で戦い、巣は南に敗走して藍田関を出、京師は平定された。克用の功が第一であったので、天子は克用を検校司空・同中書門下平章事・河東節度使に拝し、国昌を鴈門以北行営節度使とした。十月、国昌が卒した。十一月、弟の克修を遣わして昭義の孟方立を攻めさせ、澤州・潞州の二州を取ると、方立は山東に走り、邢・洺・磁の三州をもって自ら昭義軍と別立した。黄巣は南走して蔡州に至り秦宗権に降り、ついに陳州を攻めた。
中和四年(884年)
- 克用は兵五万をもって陳州を救い、天井関を出て河陽に道を借りようとしたが諸葛爽が許さず、河中より河を渡った。四月、尚譲を太康で破り、また黄鄴を西華で破った。巣は走りながら戦い中牟に至ったが、まだ河を渡らぬうちに克用が追いつき、賊衆は驚き潰え、封丘に至るとまたこれを破った。巣は身一つで走り、克用は一昼夜に三百里を馳せて追ったが寃朐に至って及ばず、汴州に還る途中で軍を封禅寺に休めた。朱全忠は克用を上源駅で饗し、夜、酒宴が終わって克用が酔って臥せると、伏兵が火を発した。侍者の郭景銖が燭を消して克用を牀下に匿い、水で顔を醒まして急を告げた。折しも天が大雨で火は消え、克用は従者の薛鉄山・賀回鶻らとともに稲光に紛れて縄で尉氏門から下りて逃れ、軍中に還った。七月、太原に至り、この事を京師に訴えて汴に加兵することを請い、弟の克修に兵一万を率いさせ河中に屯して待たせた。僖宗はこれを和解させた。巣を破った功により克用は隴西郡王に封ぜられた。
光啓元年(885年)
- 河中の王重栄は宦官田令孜と仲違いし、重栄を兗州に徙し、定州の王処存を河中節度使とすることになった。詔で克用に兵をもって処存の赴任を護らせようとした(克用はまだ僭号していなかったので王とは称さない)。重栄は人を遣わして克用を欺き、「天子は重栄に詔して、克用が到着したら処存とともにこれを誅せよ」と告げ、偽の詔書をつくって克用に見せ「これは朱全忠の謀である」と言った。克用はこれを信じ、たびたび上表して全忠討伐を請うたが、僖宗は許さず、克用は大いに怒った。重栄が徙るのを肯んじなかったので、僖宗は邠州朱玫・鳳翔李昌符を遣わしてこれを討たせたが、克用はかえって兵をもって重栄を助け玫を沙苑で破り、ついに京師を犯して縦横に掠奪した。天子は興元に出居し、克用は退いて河中に屯した。朱玫もまた反して天子を追ったが及ばず、襄王煴を得てこれに帝を称させ、鳳翔に屯した。
- 僖宗は独り克用だけが玫を破れると考えたがこれを使うことができなかった。かつて黄巣を長安で破った当時、天下兵馬都監楊復恭は克用と親しかったので、諫議大夫劉崇望を遣わして詔書をもって克用を召し、あわせて復恭の意を伝えて兵を進め玫らを討たせようとしたが、克用は表向き承諾するのみで行動しなかった。翌年、孟方立が死んでその弟遷が立った。
大順元年(890年)
- 克用は孟遷を撃破し、邢・洺・磁の三州を取った。そこで安金俊を遣わして赫連鐸を雲州に攻めさせたが、幽州の李匡威が鐸を救い、蔚州で戦って金俊は大敗した。これにより匡威・鐸・朱全忠らはみなこの敗戦に乗じて克用を討伐することを請うたが、昭宗は克用が黄巣を破った功が高く討つべきでないとし、この件を台省の四品官に議させた。議者の多くは不可とする中、宰相張濬だけは、沙陀(克用)が以前僖宗を興元に幸させるに至らせた罪は誅すべく討伐可としたが、克用と親しい軍容使楊復恭もまた強く諫めて不可とした。昭宗はこれを是としたが、全忠らはひそかに濬に賄賂を贈ってその議を固めさせ、昭宗はやむを得ず濬を太原四面行営兵馬都統、韓建を副使とした。
- この時、潞州の将馮霸が梁に叛いて降り、梁は葛従周を遣わして潞州に入らせた。唐は京兆尹孫揆を昭義軍節度使としたが、克用は李存孝を遣わして揆を長子で捕らえ、また君立を遣わして潞州を取らせた。十一月、濬と克用は陰地で戦い、濬の軍は三戦三敗して濬・建は逃げ帰った。克用の兵は晋・絳を大いに掠め河中に至り、赤地千里となった。克用は上表して自らを弁じたが、その言葉は天子を侮るものであったので自ら過ちを認め、天子は優詔してこれに応えた。
大順二年(891年)
- 二月、克用は再び河東節度使・隴西郡王に拝され、検校太師兼中書令を加えられた。四月、赫連鐸を雲州に攻め百余日囲むと、鐸は吐渾に走った。八月、太原で大蒐(大がかりな軍事演習)を行い、晋・絳を出て懐州・孟州を掠め邢州に至り、ついに王鎔を鎮州に攻めた。克用は常山の西に柵を構え、十余騎で滹沱を渡って敵情を偵察したところ、大雨に遭い平地の水は数尺の深さとなった。鎮の人がこれを襲うと、克用は林中に匿れ、その馬に「わが一族が代々太原を保つならば馬よ嘶くな」と祈ったところ、馬はたまたま嘶かず難を免れた。前軍の李存孝は臨城を取って元氏に進攻し、李匡威が鎔を救ったので克用は邢州に退いた。
景福元年(892年)
- 王鎔が邢州を攻めると、李存信・李嗣勲らは鎔を堯山で破った。二月、王処存が鎔を攻めるのに会し、新市で戦って鎔に敗れた。八月、李匡威が雲州を攻めて克用の兵を牽制しようとしたが、克用はひそかに雲州に入り、翻って匡威を撃ち、匡威は敗走した。十月、李存孝が邢州をもって叛いた。
景福二年(893年)
- 存孝は王鎔に援を求め、克用は井陘に出兵して鎔を撃ち、かつ書をもって鎔を招きつつその平山を急襲すると、鎔は懼れてついに克用と通和し、帛五十万匹を献じ、兵を出して邢州攻めを助けた。
乾寧元年(894年)
- 三月、存孝を捕らえてこれを殺した。冬、幽州を攻めると李匡儔は城を棄てて走り、景城まで追われて殺され、劉仁恭を留後とした。
乾寧二年(895年)
- 河中の王重盈が卒し、その諸子珂・珙が位を争った。克用は珂を立てることを請い、鳳翔の李茂貞・邠寧の王行瑜・華州の韓建は珙を立てることを請うた。昭宗ははじめ両者に難色を示したが、まず宰相崔胤を河中節度使とし、のちに克用の請いを許して珂を立てさせると、茂貞らは怒り、三鎮の兵が京師を犯した。しかし克用もまた起兵したと聞いてみな兵を退いた。六月、克用は絳州を攻め刺史王瑤を斬った。瑤は珙の弟で珙を助けて争った者である。七月、河中に至ると、同州の王行約は京師に逃げて「沙陀十万が至った」と偽って言い、天子を奉じて邠州に幸させようと謀り、茂貞の仮子閻圭もまた天子を劫かして鳳翔に幸させようと謀ったため、京師は大いに乱れた。昭宗は石門に出居し、克用の軍は月余り留まって進まなかった。昭宗は延王戒丕・丹王允を遣わし兄事の礼をもって克用に急を告げさせた。八月、克用は軍を渭橋に進め、邠寧四面行営都統となり、昭宗は京師に還った。十一月、克用は邠州を撃破し、王行瑜は慶州に走ったところを殺された。克用は軍を雲陽に還して茂貞を撃つことを請うたが、昭宗は克用を慰労し、茂貞と仇を解いて難を紓めさせ、克用を忠正平難功臣に拝し晋王に封じた。
- この時、晋軍は渭北で雨に遭うこと六十日、ある者が克用に入朝を勧めたが克用は決しかね、都押衙の蓋寓は「天子は石門より還られてまだ枕を安んじておられない。もし晋の兵が渭水を渡れば、人心はどうして安んじられようか。勤王すればよいだけで、何も入朝するには及ばない」と言った。克用は笑って「蓋寓ですらまだ私を信じないのに、まして天下をや」と言い、軍を収めて還った。
乾寧三年(896年)
- 正月、昭宗は再び張濬を宰相にしようとすると、克用は「これは朱全忠の謀である」と言い、上表して「もし陛下が朝にて濬を相とされれば、臣は暮れには闕廷に至るでしょう」と述べたので、京師は大いに恐れ、濬の任命はすぐに止められた。
- 朱全忠が兗州・鄆州を攻めた際、克用は李存信を遣わして魏州に道を借り朱宣らを救おうとし、存信は莘県に屯したが、軍士が魏の境を侵掠したため羅弘信は伏兵でこれを撃ち、存信は洺州に敗走した。克用は自ら魏を撃ち、洹水で戦いその子落落を失った。六月、魏の成安・洹水・臨漳など十余邑を破った。十月、また魏人を白龍潭で破り観音門に進攻したが、全忠の救援が至ったため解いた。
乾寧四年(897年)
- 劉仁恭が晋に叛き、克用は兵五万をもって仁恭を撃ったが、安塞で戦い克用は大敗した。
光化元年(898年)
- 朱全忠は葛従周を遣わして邢・洺・磁の三州を攻め下した。克用は周徳威を青山口に出したが、従周と張公橋で遇い徳威は大敗した。冬、潞州の守将薛志勤が卒すると、李罕之は潞州に拠って朱全忠に叛き附いた。
光化二年(899年)
- 全忠は氏叔琮を遣わして承天軍を攻め破り、また遼州を破って榆次に至った。周徳威はこれを洞渦で破った。秋、李嗣昭は澤・潞を取り戻した。
光化三年(900年)
- 嗣昭は汴の軍を沙河で破り、洺州を取り戻した。朱全忠は自ら率いてこれを包囲すると、嗣昭は青山口まで走ったが汴の伏兵に遭い大敗した。秋、嗣昭は懐州を取った。この年、汴人は鎮州・定州を攻め、鎮・定はみな晋との関係を絶って朱全忠に附いた。
天復元年(901年)
- 全忠は梁王に封ぜられ、梁は晋・絳・河中を攻め下し王珂を捕らえて帰った。晋は三つの与国を失ったので、意を屈して書幣をもって梁に和を求めたが、梁王は晋は弱く取れると考え、「晋は盟を請うといってもその書辞は無礼である」と言って大挙して晋を撃った。四月、氏叔琮は天井に入り、張文敬は新口に入り、葛従周は土門に入り、王処直は飛狐に入り、侯言は陰地に入った。叔琮は澤・潞を取り、その別将白奉国は承天軍を破り、遼州守将張鄂・汾州守将李瑭はみな梁軍を迎えて降った。晋人は大いに恐れたが、折しも天が大雨で梁の兵に病が多く出て、みな解いて去った。五月、晋は再び汾州を取り李瑭を誅した。六月、周徳威・李嗣昭は慈州・隰州を取った。
天復二年(902年)
- 晋・絳に進攻すると、蒲県で大敗し、梁軍は勝ちに乗じて汾・慈・隰の三州を破り、ついに太原を包囲した。克用は大いに恐れ雲州に出奔することを謀り、また匈奴に奔ることも考えたが決しかねているうちに、梁軍に疫病が大いに起こり解いて去った。周徳威は再び汾・慈・隰の三州を取り戻した。
天復四年(904年)
- 梁が唐の都を洛陽に遷し改元して天祐としたが、克用は「天子を劫かして遷都させたのは梁である。天祐は唐の年号ではないので称すべきでない」として、なお天復を称し続けた。
天復五年(905年)
- 契丹の安巴堅(耶律阿保機)と雲中で会し、兄弟の約を結んだ。
天復六年(906年)
- 梁が燕の滄州を攻め、燕王劉仁恭が救援を乞うてきた。克用は仁恭の反覆を恨みこれを許すまいとしたが、その子存勗は「これはわが勢力を復振する機会です。今、天下の情勢は梁に帰する者が十のうち七、八。趙・魏・中山のような強国も梁の命に従わぬ者はありません。これでは黄河以北で梁の患いとなる者がおらず、梁が憚るのはただ我らと仁恭あるのみです。もし燕と晋が合勢すれば梁にとって福とはなりません。天下を治めようとする者は小さな怨みを顧みるべきではありません。かつ彼(仁恭)は常に我らを苦しめてきましたが、その急難に乗じて徳をもってこれを懐柔すれば、一挙両得となります。これは逃してはならない機です」と諫めた。克用はこれをもっともとし、燕のために出兵して潞州を攻め破ると、梁の囲みは解けて去った。李嗣昭を潞州留後とした。
天復後七年(907年)
- 梁の兵十万が潞州を攻め、夾城をもってこれを囲むと、周徳威を遣わして潞州を救わせ、乱柳に軍した。冬、克用が病になった。この年、梁が唐を滅ぼすと、克用は再び天祐の年号を称するに至った(天祐四年)。
天祐五年(908年)
- 正月辛卯、克用が卒した。享年五十三。子の存勗が立ち、克用を鴈門に葬った。
史論
- ああ、時代が久しくなると、その伝えを失うことが多いのは、ひとり史官の誤りだけではない。李氏の先祖はもと西突厥から出て、朱邪と号したが、後世みずから沙陀と号し朱邪を姓とした。拔野古を始祖とするという自序によれば、沙陀とは北庭の磧(砂漠)であり、唐の太宗の時、西突厥の諸部を破って同羅・僕骨の人々をこの磧に置き沙陀府としてその始祖拔野古を都督とし、その子孫が代々沙陀の都督となったので後世自らを沙陀と号したという。
- しかし私が伝記を考えるに、その説はみな誤りである。北庭にはもともと姓氏というものはなく、朱邪は部族の号にすぎない。拔野古は朱邪と同時代の人であってその始祖ではなく、唐の太宗の時に沙陀府というものがあったこともない。太宗が西突厥を破って諸部を分け十三州を置いた際、同羅を龜林都督府、僕骨を金微都督府、拔野古を幽陵都督府としたのであって、沙陀府というものはなかった。当時、西突厥には鉄勒・延陀・阿史那の類が最大の勢力であり、その別部に同羅・僕骨・拔野古など十数の小部族があった。またその下に処月・処密などの諸部があり、朱邪は処月の別部の号にすぎない。
- 太宗二十二年、すでに拔野古が降った翌年、阿史那賀魯が叛き、高宗の永徽二年に至って処月の朱邪孤注が賀魯に従い牢山で契苾何力に敗れ、以後没して見えなくなった。それから百五、六十年ののち、憲宗の時に朱邪盡忠とその子執宜が中国に現れ、自ら沙陀と号して朱邪を姓とするに至った。沙陀とは大磧であり、金莎山の陽、蒲類海の東にある。処月以来この磧に居って沙陀突厥と号したが、その頃は文字も記録もなく、朱邪もまた微小で記録されなかったため、後世その伝えを自ら失ったのである。盡忠の孫に至って初めて李氏の姓を賜り、李氏がのちに大となると、その頃の人々はついに沙陀を貴種とみなすようになったという。