新五代史卷三 梁本紀第三 末帝

末帝朱友貞は太祖の第三子。兄友珪が太祖を弑して簒奪すると挙兵してこれを討ち即位した。晋(李存勗)との抗争が続くなか、王彦章の戦死を機に梁は滅び、友貞は自ら崩じた。享年三十六。

年表(8件)
  • 912年太祖が弑逆されると、友珪の簒奪に対し東京留守・開封尹となる
  • 913年袁象先らに友珪を討たせ東都で即位する
  • 915年天雄軍が晋に叛いて附き、河北の情勢が悪化する
  • 916年劉鄩が晋軍に大敗し、貝州守将張源徳が死す
  • 918年賀瓌が胡柳で晋軍に敗れる
  • 920年河中節度使朱友謙が晋に叛いて附く
  • 921年趙の張文礼が王鎔を殺し、恵王友能が反す
  • 923年王彦章が中都で晋軍に敗れて戦死し、皇帝は崩御。梁は滅亡する。享年三十六

出自と生い立ち

  • 末帝は太祖の第三子友貞である。人となりは容貌美しく沈厚寡言で、儒士を好んだ。太祖の即位に際し均王に封ぜられ、左天興軍使・東京歩軍都指揮使となった。

乾化二年(912年)

  • 六月、太祖が弑逆に遭うと、友珪は自立し、博王友文を殺してその弑帝の罪を友文に帰した。均王(末帝)は東京留守・開封尹となり、敬翔は中書侍郎同中書門下平章事、戸部尚書李振は崇政院使となった。

乾化三年(913年)

  • 翌年、友珪は改元して鳳暦とした。二月、駙馬都尉趙巖が東都に至り、均王は私かにこれと謀り、馬慎交を魏州に遣わして楊師厚に見えさせて計事させた。師厚は小校王舜賢を洛陽に遣わし、左龍虎統軍袁象先に賊(友珪)討伐を告げさせた。この時、懐州の龍驤屯兵が叛き、まさに捕索されようとしていた。均王は友珪の詔書を偽って発し、東都にいた左右龍驤兵をことごとく洛陽に呼び戻し、これを激怒させて「天子は懐州の屯兵が叛いたとしてお前たちも追及し、みな坑に生き埋めにしようとしている」と告げた。諸将はみな泣き、どうすべきか分からなかった。均王は「先皇帝が王業を経営すること三十余年、今日なお友珪に殺された。お前たちはどこに死を逃れる場所があろうか」と述べ、太祖の画像を出して諸将に示し泣くと、「あなたが洛陽に趣いて逆賊を擒にすれば、禍を転じて福となせる」とみな万歳を呼んで均王を主に推した。均王は人を遣わして袁象先らを促した。庚寅、象先らは禁兵を率いて賊(友珪)を討ち、友珪は死んだ。杜曉は殺され、象先は趙巖に伝国璽を持たせて東都に至らせ、均王に洛陽入りを請うた。均王は「夷門(汴州)は太祖が王業を興した地である。北は并州・汾州に距たり、東は淮海に至り、国家の藩鎮は多く東方にある。将を命じて出師するには便近が有利である」と答えた。この月、皇帝は東都に即位した。乾化の年号を復して称した。
  • 乾化三年、博王友文の官爵を復した。三月丁未、名を鍠と改めた。夏五月、楊師厚は滄州を取った。秋九月甲辰、御史大夫姚洎を中書侍郎同中書門下平章事とした。冬十二月、晋人は幽州を取った。

乾化四年(914年)

  • 夏四月丁丑、于兢を貶して莱州司馬とした。武寧軍節度使蔣殷が反し、天平軍節度使牛存節がこれを討った。

貞明元年(915年)

  • 春正月、存節は徐州を克した。三月丁卯、趙光逢を罷め、平盧軍節度使賀徳倫を天雄軍節度使とし、その相州・澶州・衛州を分けて昭徳軍とし、宣徽使張筠を節度使とした。己丑、天雄軍が乱れ、賀徳倫は晋に叛いて附いた。邠州の李保衡は岐に叛いて来附した。夏六月庚寅朔、晋王李存勗が魏州に入り、ついに徳州を取った。冬十月辛亥、康王友孜が反し誅に伏した。十一月乙丑、改元した。耀州の温昭図は岐に叛いて来附した。この年、名を瑱と改めた。

貞明二年(916年)

  • 春二月丙申、楊渉を罷めた。三月、鎮南軍節度使劉鄩は晋人と故元城で戦い敗績し、滑州に奔った。晋人は衛州を取った。恵州捉生都将李霸が反し誅に伏した。夏六月、捉生都将張温が晋に叛いて降った。秋七月、晋人は相州を取り、張筠は京師に奔った。安国軍節度使閻宝は晋に叛いて附いた。八月丁酉、太子太保致仕趙光逢を司空兼門下侍郎同中書門下平章事とした。九月、晋人は滄州を取り、横海軍節度使戴思遠は京師に奔った。晋人は貝州を克し、守将張源徳はこれに死んだ。冬十月丁酉、中書侍郎鄭珏を同中書門下平章事とした。

貞明三年(917年)

  • 夏四月辛卯、右千牛衛大将軍劉璩を契丹に使いさせた。冬十二月、宣義軍節度使賀瓌を北面行営招討使とした。己巳、西都に如き、郊祀を占った。晋人は楊劉を取った。

貞明四年(918年)

  • 正月、郊祀は下せなかった。己卯、西都より至った。夏四月己酉、尚書吏部侍郎蕭頃を中書侍郎同中書門下平章事とした。己巳、趙光逢を罷めた。冬十二月庚子朔、賀瓌はその将謝彦章・孟審澄・侯温裕を殺した。癸亥、瓌は晋人と胡柳で戦い敗績した。この年、泰寧軍節度使張守進は晋に叛いて附き、亳州団練使劉鄩を兗州安撫制置とし討伐させた。

貞明五年(919年)

  • 春正月、晋は徳勝に軍した。秋八月乙未朔、開封尹王瓚を北面行営招討使とした。冬十月、劉鄩は兗州を克し、張守進は誅に伏した。十二月、晋人は濮陽を取り、天平軍節度使霍彦威を北面行営招討使とした。

貞明六年(920年)

  • 夏四月己亥、死罪以下の囚人を降した。乙巳、尚書左丞李琪を中書侍郎同中書門下平章事とした。河中節度使朱友謙は同州を襲いその節度使程全暉を殺し、晋に叛いて附き、泰寧軍節度使劉鄩がこれを討った。秋七月、陳州の妖賊母乙が自ら天子を称した。九月庚寅、供奉官郎公遠を契丹歓好使とした。冬十月、母乙は誅に伏した。

龍徳元年(921年)

  • 春、趙の将張文礼はその君王鎔を殺し、援兵を乞うたが許さなかった。三月丁亥朔、私かに僧尼となることを禁じた。陳州刺史恵王友能が反した。夏五月丙戌朔、徳音を下し改元して流罪以下の囚人を降した。秋、友能を赦し、房陵侯に降封した。天平軍節度使戴思遠を北面行営招討使とした。冬十月、思遠は晋人と戚城で戦い敗績した。

龍徳二年(922年)

  • 春正月、思遠は魏州を襲い成安を取った。秋八月、滑州兵馬留後段凝は衛州を攻めその刺史李存儒を捕らえた。戴思遠は淇門・共城・新郷を克した。

龍徳三年(923年)

  • 春三月、潞州の李継韜は晋に叛いて来附した。夏閏四月、唐人は鄆州を取った。五月庚申、宣義軍節度使王彦章を北面行営招討使とし、徳勝南城を取った。秋八月、段凝を北面行営招討使とし、先鋒将康延孝は唐に叛いて降った。冬十月甲戌、宣義軍節度使王彦章は唐人と中都で戦い敗績し死んだ。唐人は曹州を取った。伝国璽を盗んだ者が唐に奔った。戊寅、皇帝は崩じた。年三十六。梁は亡んだ。