新五代史卷二 梁本紀第二 太祖下
太祖朱晃(朱全忠)の即位後、開平元年(907年)から乾化二年(912年)までを描く。唐に代わって皇帝となり梁を建国したが、晩年は諸将の離反と皇子友珪の反により弑逆され、在位五年余りで崩じた。
開平元年(907年)
- 春正月壬寅、天子は御史大夫薛貽矩を遣わして軍を労わせ、宰相張文蔚は百官を率いて勧進した。夏四月壬戌、名を晃と改めた。甲子、皇帝に即位した。戊辰、大赦した。改元して国号を梁とし、唐主(唐の哀帝)を済陰王に封じた。汴州を開封府に昇格させて東都とし、唐の東都(洛陽)を西都とし、京兆府を廃して雍州とした。東都に酺を一日賜り、契丹の安巴堅(耶律阿保機)が使者を遣わして袍・笏・羙楽を献じてきた。
- 五月丁丑朔、唐の宰相張文蔚・楊渉を門下侍郎、御史大夫薛貽矩を中書侍郎とし、ともに同中書門下平章事とした。戊寅、渤海・契丹が使者を遣わしてきた。乙酉、兄の全昱を広王に、子の友文を博王、友珪を郢王、友璋を福王、友貞を均王、友徽を建王、姪の友諒を衡王、友能を恵王、友誨を邵王に封じた。甲午、枢密院を崇政院と改め、太府卿の敬翔を使とした。この月、潞州行営都指揮使の李思安は晋人と戦い敗績した。
- 六月甲寅、平盧軍節度使韓建を守司徒・同中書門下平章事とした。秋七月己亥、祖考を追尊して皇帝とし、妣を皇后とした。皇高祖の黯を宣元と諡し廟号を粛祖、祖妣の范氏を宣僖と諡した。曽祖の茂琳を光献と諡し廟号を敬祖、祖妣の楊氏を光孝と諡した。祖の信を昭武と諡し廟号を憲祖、祖妣の劉氏を昭懿と諡した。考の誠を文穆と諡し廟号を烈祖、妣の王氏を文恵と諡した。
- 八月丁卯、同州で虸蚄虫(害虫)が発生し、隰州の黄河が清んだ。九月、括馬(馬の徴発)を行った。冬十月己未、繁台で武を講じた。十一月壬寅、亡命者・背軍者・髠黥の刑徒を赦した。
開平二年(908年)
- 春正月丁酉、渤海が使者を遣わしてきた。己亥、西都で郊祀を占った。済陰王(唐の哀帝)を弑した。二月辛未、契丹の安巴堅が使者を遣わしてきた。三月壬申朔、西都に如いた。丙子、懐州に如いた。丁丑、澤州に如いた。戊寅、鴻臚卿の李崧を介国公として二王の後とした。壬午、匡国軍節度使劉知俊を潞州行営招討使とした。癸巳、郊祀を占い、張文蔚が薨じた。
- 夏四月癸卯、楊渉を罷め、吏部侍郎于兢を中書侍郎翰林学士承旨、礼部侍郎張策を刑部侍郎とし、ともに同中書門下平章事とした。壬子、澤州に至った。五月己丑、潞州行営都虞候康懐英は晋人と夾城で戦い敗績した。戊戌、唐の三廟を立てた。契丹が使者を遣わしてきた。六月壬寅、忠武軍節度使劉知俊を西路行営招討使とし、岐を伐たせた。己酉、金吾衛上将軍王師範を殺しその一族を滅ぼした。丙辰、劉知俊は岐人と漠谷で戦いこれを破った。
- 秋九月丁丑、陝州に如いた。博王友文を東都留守とした。冬十月丁未、陝州より至った。十一月癸巳、張策を罷め、左僕射楊渉を同中書門下平章事とした。十二月己亥、介国公を三恪とし、酅国公・莱国公を二王の後とした。
開平三年(909年)
- 春正月甲戌、西都に如き、再び燃灯して福を祈った。庚寅、太廟に享し、辛卯、南郊で祀りを行った。大赦し、丙申、群臣は尊号を上って睿文聖武広孝皇帝とした。二月壬戌、西杏園で武を講じた。甲子、延州の髙萬興が岐に叛いて来降した。三月辛未、渤海国王大諲譔が使者を遣わしてきた。甲戌、河中に如いた。山南東道節度使楊師厚を潞州四面行営招討使とした。劉知俊は丹州を取った。夏四月丙午、知俊は延・鄜・坊の三州を克した。五月己卯、河中より至り、佑国軍節度使王重師を殺した。
- 六月庚戌、劉知俊は佑国軍節度使劉捍を捕らえ、岐に叛いて附いた。辛亥、陝州に如いた。乙卯、冀王朱友謙を同州東面行営招討使とした。劉知俊は岐に奔った。丹州で軍が乱れ、その刺史宋知誨を逐った。秋七月、商州で軍が乱れ、その刺史李稠を逐い、稠は岐に奔った。乙丑、丹州を克しその首悪王行思を捕らえた。乙亥、陝州より至った。甲申、襄州で軍が乱れその留後王班を殺した。房州刺史楊虔は蜀に叛いて附いた。
- 八月辛亥、死罪の囚人を降した。辛酉、均州刺史張敬方は房州を克し楊虔を捕らえた。閏月癸酉、契丹が使者を遣わしてきた。己卯、西苑で稼を閲した。九月壬寅、行営招討使左衛上将軍陳暉は襄州を克しその首悪李洪を捕らえた。丁未、保義軍節度使王檀を潞州東面行営招討使とした。辛亥、韓建・楊渉を罷め、太常卿趙光逢を中書侍郎翰林学士承旨、工部侍郎杜曉を戸部侍郎とし、ともに同中書門下平章事とした。辛酉、李洪・楊虔を誅に伏した。
- 冬十一月甲午、冬至に南郊で告謝した。己酉、賢良を捜訪した。鎮国軍節度使康懐英は岐を伐った。十二月、懐英は寧・慶・衍の三州を克し、劉知俊と升平で戦い敗績した。
開平四年(910年)
- 春正月壬辰朔、初めて楽を用いた(唐末の乱以来礼楽が絶えていたため、ここに始めて記す)。丁未、榆林で武を講じた。二月己丑、穀水で稼を閲した。秋八月丙寅、陝州に如いた。河南尹張宗奭を西都留守とした。辛未、護国軍節度使楊師厚を西路行営招討使とし、岐を伐たせた。九月己丑、陝州より至った。辛亥、賢良を捜訪した。冬十一月己丑、寧国軍節度使王景仁を北面行営招討使とし、趙を伐たせた。趙王王鎔・北平王王処直は晋に叛いて附き、晋人は趙を救った。十二月癸酉、律令格式を頒った。
乾化元年(911年)
- 春正月丁亥、王景仁は晋人と柏郷で戦い敗績した。庚寅、流罪以下を赦し、危言正諫を求めた。癸巳、天雄軍節度使楊師厚を北面行営招討使とした。夏四月壬申、契丹の安巴堅が使者を遣わしてきた。五月甲申朔、大赦して改元した。癸巳、張宗奭の邸に幸した。秋八月戊辰、榆林で稼を閲した。渤海が使者を遣わしてきた。戊寅、興安鞠場で大閲した。九月辛巳朔、文明殿に御して入閤した。庚子、魏州に如いた。張宗奭を西都留守とした。冬十月丙子、魏東郊で大閲した。十一月、髙萬興は塩州を取った。壬辰、魏州より至った。乙未、回鶻・吐蕃が使者を遣わしてきた。
乾化二年(912年)
- 春二月丁巳、光禄卿盧玭を蜀に使いさせた。甲子、魏州に如いた。張宗奭を西都留守とした。白馬に次って左散騎常侍孫隲・右諫議大夫張衍・兵部郎中張儁を殺した。戊寅、貝州に如いた。三月丙戌、棗彊を屠った。丁未、再び魏州に如いた。夏四月己巳、魏州より至った。戊寅、西都に如いた。三月丁亥、徳音を下し死罪以下の囚人を降した。役徒を罷め、屠殺・生き物の捕獲を禁じた。渤海が使者を遣わしてきた。この月、薛貽矩が薨じた。
- 六月、病が革(あらた)まり、郢王友珪が反した。戊寅、皇帝は崩じた。
史論
- ああ、天下が梁を憎むこと久しい。後唐以来、みな梁を偽朝とみなしてきた。私が五代の史を論次するに当たり、独り梁だけを偽としないでいると、議論する者はあるいは私が『春秋』の趣旨を大きく失っていると譏り、梁は大悪をなしたのだから誅絶を加えるべきで、かえってこれを進めるのは簒奪を奨めるものであり『春秋』の志ではないという。
- 私はこれに答えて言う。これこそが『春秋』の志である。魯の桓公は隠公を弑して自立し、宣公は子赤を弑して自立し、鄭の厲公は世子忽を逐って自立し、衛の公孫剽は君の衎を逐って自立した。聖人は『春秋』において、この四者の君たる地位を絶っていない。私が梁を偽としないのも、『春秋』の法を用いてのことである。
- ならば『春秋』もまた簒奪を奨めるのか。答えて言う。ただこの四者の君たる地位を絶たなかったところにこそ、『春秋』の意が見える。聖人が『春秋』に用いる意は深いからこそ、勧戒が切実であり、言が信となってはじめて善悪が明らかになる。そもそも後世にその罪を著そうとするならば、その事実を没しないことにある。その者が実際に君であったならば、君であったと書き、その簒奪の事実もまた書く。それぞれの事実を伝えて後世に信じさせれば、四君の罪は隠しようがない。君であった者にその悪を隠させないようにしてこそ、人は悪名を逃れられないことを知り、悪をなす者はほとんど止むのである。これを、意が深く勧戒が切実であり、言が信となって善悪が明らかになる、というのである。
- 桀・紂はその王号を貶めなくとも、万世が共にこれを憎む存在である。『春秋』が大悪の君を誅絶しないのは、その褒善貶悪の趣旨を害するものではない。ただその事実を没せずにその罪を著し、後世に信じさせることによってこそ、君であった者にその悪を隠させず、人が悪をなすのを止ませることができるのである。この意を知ってこそ、私が梁を偽としない趣旨を理解できよう。