史記卷一百三十 太史公自序第七十

司馬氏の家系

  • 遠祖は帝顓頊の代に南正として天を、北正として地を司った重・黎に遡る。唐虞の際にはその後裔が職を継ぎ、夏・商に至るまで重黎の氏族が代々天地を掌る官を世襲した。
  • 周代には程伯休甫がその後裔にあたる。宣王の時に世職を失って司馬氏を名乗るようになり、以後司馬氏は代々周の史官を務めた。
  • 恵王・襄王の間に司馬氏は周を去って晋に移り、晋の中軍の将であった随会が秦に亡命した際、司馬氏は少梁の地に入った。
  • 以後一族は分散し、衛に在った者は中山の相となり、趙に在った者は剣術理論で名を顕し蒯聵の祖となった。秦に在った者は名を錯といい、張儀と論争し、恵王の命で蜀を伐って平定しこれを守った。
  • 錯の孫の靳は武安君白起に仕え、趙の長平で降兵を坑にした戦いに従ったが、後に白起とともに杜郵で死を賜り、華池に葬られた。靳の孫の昌は始皇帝の時、秦の鉄官の長を務めた。
  • 蒯聵の玄孫の卬は武信君(武臣)の将として朝歌を平定し、諸侯が王を立てた際に殷王に封じられた。漢が楚を伐つと卬は漢に帰順し、その地は河内郡となった。
  • 昌の子の無沢は漢の市長となり、無沢の子の喜は五大夫となって没し、共に高門に葬られた。喜の子が談であり、これが太史公である。

太史公談の学問と「論六家要指」

  • 太史公談は唐都に天文学を、楊何に『易』を、黄子に道家思想を学んだ。建元・元封の間に仕え、学者たちが本旨に達せずに誤った師説に従うことを憂い、陰陽・儒・墨・名・法・道徳の六家の要旨を論じた。
  • 『易大伝』にいう「天下は一致を目指しながら考え方は百様であり、帰着は同じでも道筋が異なる」との言葉のとおり、陰陽家・儒家・墨家・名家・法家・道家はいずれも治世を志す点で共通し、ただ説く道筋が異なり、省みるべき点の有無に差があるだけである。
  • 陰陽家は吉凶を大げさに説き禁忌が多く人を拘束しがちだが、四季の巡りの大きな順序を示す点は捨てがたい。
  • 儒家は範囲が広く要点に乏しく労多くして功少なく、その全てに従うのは難しいが、君臣父子の礼や夫婦長幼の別を示す点は変えがたい。
  • 墨家は倹約だが実行しがたく全てには従いにくいが、根本を強め節約を説く点は捨てがたい。
  • 法家は厳格で情に薄いが、君臣上下の分を正す点は改めがたい。
  • 名家は人を委縮させ本質を見失わせがちだが、名と実を正す点は見過ごせない。
  • 道家は人の精神を専一にし、形なきものに合致させ万物を満ち足らせる。時勢に応じて変化し、どのような事にも適応でき、要点が簡約で実行しやすく、労少なくして功多い。これに対し儒家は君主を模範として臣下がそれに従う形を取るため、君主が労し臣下が安逸を貪ることになる。道家の要は欲望への執着を去り、耳目の聡明さに頼らず術(無為の道)に任せることにある。精神を使いすぎれば涸れ、身体を酷使すれば疲弊する。心身を騒がしくして天地と共に長久であろうとするのは、聞いたことがない。
  • 陰陽家の説く八位・十二度・二十四節にはそれぞれ教令があり、従えば栄え逆らえば必ず滅ぶというが、それは必ずしも当たらない。それゆえ「人を拘束し多くを畏れさせる」と言うのである。ただし春に生じ夏に長じ秋に収め冬に蔵すという天道の大原則に従わなければ天下の綱紀を保てない。それゆえ「四季の大きな順序は失ってはならない」と言うのである。
  • 儒家は『六芸』を法とするが、その経伝は千万を数え、一生かけても学び尽くせず、一年ではその礼を究めきれない。それゆえ「範囲が広く要点に乏しく、労多くして功少ない」と言うのである。しかし君臣父子の礼、夫婦長幼の別を示す点は、諸子百家の誰であっても変えることができない。
  • 墨家もまた堯舜の道を尊び、その徳行として「堂の高さは三尺、土の階段は三段、茅葺きの屋根は切り揃えず、粗末な椽は削らない。土器で食し、粗末な羹を啜り、夏は葛の衣、冬は鹿の皮衣を着る」と説き、葬送も桐の棺三寸で哀しみを尽くさず、これを万民の規範とすべきとする。しかしこれでは尊卑の区別がなくなってしまう。世は移り事業も同じではありえないので「倹約だが実行しがたい」と言う。ただし根本を強め節約するという要点は、人々の暮らしを充足させる道であり、これは百家といえども廃せない墨子の長所である。
  • 法家は親疎を区別せず貴賎の別も設けず、一切を法によって断じるため、親愛と尊敬の情が絶たれてしまう。一時の策としては行えても長く用いることはできない。それゆえ「厳格で情に薄い」と言うのである。しかし君主を尊び臣下を控えさせ、分職を越権させない点は、百家といえども改められない。
  • 名家は詮索が細かく回りくどく、人が本意に立ち返れないようにし、名にばかりこだわって人情を見失わせる。それゆえ「人を委縮させ本質を見失わせがちだ」と言う。しかし名を正して実を求め、比較検証して誤らない点は見過ごせない。
  • 道家は無為でありながら為さぬことがないとされ、実行は容易だが言葉で説明するのは難しい。その術は虚無を根本とし、因循(自然に従うこと)を働きとする。定まった形勢も一定の形も持たないので、万物の実情を究めることができる。物に先んじることも後れることもなく、それゆえ万物の主となりうる。法があるようで無いように時に応じて事業を為し、限度があるようで無いように物に応じて合致する。「聖人は朽ちず、時の変化にこそ従う。虚こそ道の常であり、因循こそ君主の要諦である」と言われる所以である。群臣が揃って参内すれば、各々に自ら本分を明らかにさせる。言葉と実質が一致するものを端といい、一致しないものを窾(うつろ)という。窾言を聞き入れなければ姦は生じず、賢と不肖は自ずと分かれ、白黒もはっきりする。用いようとする所にあるだけで、何事も成らぬはずがない。これこそ大道に合致し、混沌として奥深い。天下を照らしながらも無名に立ち返る。人が生きるのは神(精神)によってであり、それを託すのは形(肉体)である。神を使いすぎれば尽き、形を酷使すれば疲弊し、神と形が離れれば死ぬ。死者は生き返らず、離れたものは戻らないので、聖人はこれを重んじる。神は生の根本であり、形は生の道具である。まず神と形を定めずして「私には天下を治める道がある」と言っても、何によってできようか。

談の死と遺言

  • 太史公談は天文を掌るのみで民政には携わらなかった。子は遷という。遷は龍門に生まれ、黄河・竜門山の南で農耕・牧畜を営み、十歳で古文を読誦した。二十歳で江水・淮水を南遊し、会稽に上って禹の遺跡(禹穴)を探り、九疑山を窺い、沅水・湘水に浮かび、北は汶水・泗水を渉って斉・魯の都で学問を講じ孔子の遺風を観察し、鄒・嶧で郷射の礼を見学し、鄱・薛・彭城で困窮しつつ梁・楚を経て帰った。その後郎中として仕え、使者として西は巴・蜀以南に赴き、南は邛・笮・昆明を略定して復命した。
  • ちょうどこの年、天子が漢家として初めて封禅の礼を行おうとしたが、父の太史公談は周南に留め置かれ従事できず、憤りのあまり病を発して死に瀕した。ちょうど使者の任から帰った子の遷が河洛の間で父に会うと、談は遷の手を執って泣きながら言った。 「我が先祖は周室の太史であった。その昔、虞・夏の代に功名を顕し、天官の事を掌った。後世に至って衰え、私の代で絶えてしまうのか。お前が再び太史となれば、我が祖の業を継ぐことになる。今、天子は千年に一度の統を受け継ぎ泰山に封禅されるが、私は従うことができない。これも運命であろうか。私が死んだら、お前は必ず太史となれ。太史となったら、私が論述しようとしてきたことを忘れるな。そもそも孝は親に仕えることに始まり、君に仕えることを中間とし、身を立てることに終わる。後世に名を揚げて父母を顕すこと、これが孝の最たるものである。天下が周公を称えるのは、彼が文王・武王の徳を歌に論じ、周公・召公の教化を広め、太王・王季の思慮を明らかにし、公劉に及んで后稷を尊んだからである。幽王・厲王の後、王道は欠け礼楽は衰えたが、孔子は旧を修め廃れたものを起こし、『詩』『書』を論じ『春秋』を作り、学者は今もこれを模範とする。麒麟を獲てから四百余年、諸侯は互いに併合し合い、史書の記録は絶えてしまった。今、漢が興り天下は統一され、明主・賢君・忠臣・義に死ぬ士がいるのに、私は太史でありながらこれを論じ記さず、天下の歴史の記録を廃してしまうことを、私は深く恐れる。お前はこれを心に留めよ」 遷は俯いて涙を流しながら「不肖の身ではございますが、先人が集められた旧聞をことごとく論述し、決して欠くことはいたしません」と答えた。

太史令就任と『太初暦』改暦

  • 父の死から三年後、遷は太史令となり、石室金匱に収められた史書の記録を紐解いた。それから五年、太初元年に当たる年の十一月甲子朔旦の冬至の日に暦が改められ、明堂で儀が行われ、諸神が新しい暦を受けた。

春秋の意義をめぐる壺遂との問答

  • 太史公は言う。「先人が『周公の死後五百年で孔子が現れた。孔子の死後今日まで五百年、明らかな世を継いで正しい易伝を著し『春秋』を継承し、『詩』『書』『礼』『楽』の意義を明らかにする者が現れるだろうか』と語っていた。その志はまさにここにあるのだ、ここにあるのだ。私はどうして辞退できようか」
  • 上大夫の壺遂が「昔、孔子はなぜ『春秋』を作ったのですか」と問うと、太史公は答えた。「私は董生(董仲舒)からこう聞いている。『周の道が衰廃し、孔子は魯の司寇となったが、諸侯はこれを害しようとし大夫はこれを妨げた。孔子は自分の言葉が用いられず道が行われないことを知り、二百四十二年間の是非を論じて天下の規範とし、天子を貶め諸侯を退け大夫を討ち、王者のあるべき事を明らかにしようとしたに過ぎない』と。孔子自身も『私はこれを空言として述べるより、実際の行事に即して深く明らかに示す方がよいと考えた』と言った。『春秋』は上は三王の道を明らかにし、下は人事の筋道を弁じ、疑わしきを分け是非を明らかにし、迷いを定め、善を善とし悪を悪とし、賢者を賢とし不肖を賤しみ、亡んだ国を存続させ絶えた家を継がせ、廃れたものを補い起こす、王道の大なるものである。『易』は天地陰陽四時五行を著すので変化に長じ、『礼』は人倫の秩序を記すので実践に長じ、『書』は先王の事を記すので政治に長じ、『詩』は山川谿谷や禽獣草木、動植物の雌雄を記すので風化に長じ、『楽』は楽の成立を説くので調和に長じ、『春秋』は是非を弁じるので人を治めることに長じる。それゆえ『礼』で人を節し、『楽』で和を発し、『書』で事を導き、『詩』で意を達し、『易』で変化を説き、『春秋』で義を説く。乱世を治め正道に戻すのに『春秋』ほど近いものはない。『春秋』は文が数万字に及ぶがその趣旨は数千に及び、万物の離合はすべてこの中にある。『春秋』の中では、君主を弑した例が三十六、国を滅ぼされた例が五十二、社稷を保てず逃げ惑った諸侯は数えきれない。その理由を調べると、皆その根本を見失ったことにある。それゆえ『易』に『わずかな差が千里の誤りとなる』とあり、また『臣が君を弑し子が父を弑すのは一朝一夕の理由ではなく、その兆しは久しく積もったものだ』と言われる。国を保つ者は『春秋』を知らねばならず、知らねば前に讒言があっても見抜けず、後に賊があっても気づけない。人臣たる者も『春秋』を知らねばならず、知らねば通常のことには対応できても事変に臨んで適切な判断ができない。人君や父たる者が『春秋』の義に通じなければ必ず首悪の汚名を被り、人臣や子たる者が『春秋』の義に通じなければ必ず簒奪・弑逆の誅罰、死罪の汚名を被る。当人たちは善かれと思って行い、その義を知らずに行ったことでも、無実の汚名を着せられて弁明できなくなる。礼義の要旨に通じなければ、君が君らしくなく、臣が臣らしくなく、父が父らしくなく、子が子らしくなくなる。君が君らしくなければ侵犯され、臣が臣らしくなければ誅殺され、父が父らしくなければ道に外れ、子が子らしくなければ不孝となる。この四つの過ちは天下の大罪である。それを負わされれば甘んじて受けざるを得ない。それゆえ『春秋』は礼義の大宗である。礼は事の起こる前に禁じ、法は事が起こった後に施す。法の働きは目に見えやすいが、礼の禁じるところは分かりにくい」
  • 壺遂は「孔子の時代は上に明君なく下でも用いられなかったので『春秋』を作り、空言によって礼義を判断する基準とし、一代の王法としました。しかし今、先生は上には明天子に遇い、下では官職を守り、万事はすでに整い各々その適所を得ています。先生の論述は何を明らかにしようとするのですか」と問うた。
  • 太史公は「はい、いいえ、そうではない」と答えた。「私は先人からこう聞いている。『伏羲は至って純朴で厚く、『易』の八卦を作った。堯舜の盛時は『尚書』に記され、礼楽が興った。湯王・武王の隆盛は詩人がこれを歌った。『春秋』は善を採り悪を貶め、三代の徳を推し周室を褒めたたえたのであって、単なる風刺・譏りではない』と。漢が興ってより明天子(今上)に至り、瑞祥を得て封禅を行い、正朔を改め服色を変え、天命を受けてその恵沢は極まりなく及び、海外の異民族も通訳を重ねて関塞に至り朝貢を願う者が数えきれないほどである。臣下百官は力を尽くしてその聖徳を称えているが、なおその意を十分に表しきれていない。それに、賢能な士がありながら用いられないのは国を保つ者の恥であり、主上が明聖でありながらその徳が広く知られないのは有司の過ちである。私はかつてその官(太史)を掌りながら、明聖の徳を記さず、功臣・世家・賢大夫の事跡を述べなければ、先人の言葉を無にすることになり、これに勝る罪はない。私が述べようとするのは過去の事跡を整理し継承することであって、いわゆる創作ではない。それを『春秋』になぞらえるのは誤りである」

発憤著述と李陵の禍

  • こうして遷はその文を論じ整えていったが、太史令となって七年後、李陵の禍に遭い獄に幽閉された。嘆いて「これは私の罪だ、これは私の罪だ。身が毀損され二度と用いられまい」と言い、なおも深く思いを巡らせた。「『詩』『書』の言葉が隠約であるのは、志を遂げようとする思いによるものだ。昔、西伯(文王)は羑里に囚われて『周易』を演じ、孔子は陳蔡で困窮して『春秋』を作り、屈原は追放されて『離騒』を著し、左丘明は失明して『国語』を著し、孫子は膝の刑に処されて兵法を論じ、呂不韋は蜀に遷されて『呂覧』が世に伝わり、韓非は秦に囚われて『説難』『孤憤』を著した。『詩』三百篇も大抵は聖賢が憤りを発して作ったものである。これらの人々は皆、心に鬱結するところがあり、その道を通じさせることができなかったため、過去の事を述べて後世の人に思いを託したのだ」
  • こうしてついに陶唐(堯)以来、麒麟を獲た(麟止)に至るまでを述べることとし、黄帝から書き起こした。

全百三十篇の総目次

  • 昔の黄帝は天地の法則に則り、四聖(顓頊・帝嚳・堯・舜)が次々に法度を確立した。唐堯は位を譲り、虞舜は驕らず、その美徳と功績は万世に伝えられる。よって『五帝本紀』第一を作る。
  • 禹の功績によって九州は統一され、その光は唐虞の時代に及び、徳は子孫にまで流れた。夏の桀は淫らに驕り、鳴条に放逐された。よって『夏本紀』第二を作る。
  • 契が商を興し湯に至った。太甲は桐宮に居て徳を正し、伊尹(阿衡)の輔佐で盛んになった。武丁は傅説を得て高宗と称された。帝辛(紂)は酒色に溺れ、諸侯は朝せなくなった。よって『殷本紀』第三を作る。
  • 后稷(棄)が稷官となり、西伯(文王)に至って徳が盛んになった。武王は牧野の戦いで天下を安んじた。幽王・厲王は昏乱し豊・鎬の地を失い、次第に衰えて赧王に至り、洛邑では祭祀も絶えた。よって『周本紀』第四を作る。
  • 秦の先祖の伯翳は禹を輔けた。穆公は義を重んじたが、人を殉死させたことは『黄鳥』の詩に悼まれた。昭襄王は覇業を成した。よって『秦本紀』第五を作る。
  • 始皇帝が立って六国を併合し、兵器を鋳つぶし武備を収め、帝号を称して武力を誇った。二世が受け継ぎ、子嬰は降って虜となった。よって『始皇本紀』第六を作る。
  • 秦が道を失うと豪傑が並び起こった。項梁が事業を興し子羽(項羽)が継ぎ、宋義を殺して趙を救い諸侯に擁立されたが、子嬰を誅し懐王との約束に背いたため天下に非難された。よって『項羽本紀』第七を作る。
  • 項羽が暴虐を行う中、漢(高祖)が功徳を興し、蜀漢の地で奮起して三秦を平定し、項籍を誅して帝業を成し、天下を安んじ制度風俗を改めた。よって『高祖本紀』第八を作る。
  • 恵帝が早くに崩じ、諸呂が治まらなかった。呂禄・呂産を重んじたことを諸侯が謀り、隠王・幽王・友を殺し、大臣たちは深く疑い恐れ、ついに一族に禍が及んだ。よって『呂太后本紀』第九を作る。
  • 漢の初め継嗣が定まらない中、代王(文帝)を迎えて即位させ天下が心服した。肉刑を除き関所の制限を開き、恩恵を広く施し「太宗」と称えられた。よって『孝文本紀』第十を作る。
  • 諸侯が驕り、呉が乱の首謀となったが、京師が誅罰を行い七国は罪に服した。天下は治まり大いに富み栄えた。よって『孝景本紀』第十一を作る。
  • 漢は五代を経て建元の代(武帝)に隆盛を迎え、外は夷狄を退け内は法度を整え、封禅を行い正朔を改め服色を変えた。よって『今上本紀』第十二を作る。
  • 三代(夏殷周)は年代が古く紀年を考証しがたいため、譜牒や旧聞に基づき概略を推し量った。よって『三代世表』第一を作る。
  • 幽王・厲王の後、周室が衰え諸侯が政を専らにし『春秋』も記さぬ事があった。譜牒を整え、五霸の盛衰を通して周代の諸侯の前後関係を明らかにするため、『十二諸侯年表』第二を作る。
  • 春秋の後、陪臣が権を執り強国が互いに王を称し、ついに秦が諸夏を併合し封地を滅ぼしてその号を独占した。よって『六国年表』第三を作る。
  • 秦が暴虐であったため楚人(陳勝)が兵を挙げ、項氏が乱を起こし、漢が義兵を挙げて征伐した。八年の間に天下は三度主が変わり事変が多かったため、『秦楚之際月表』第四を詳しく作った。
  • 漢興以来太初に至る百年間、諸侯の廃立・分割が多く系譜が明らかでなく担当官も踏襲しなかったため、強弱の由来を代ごとに記した。よって『漢興已来諸侯年表』第五を作る。
  • 高祖の元功の臣は輔弼の股肱として符を剖いて爵を受け、恩沢は子孫に及んだが、昭穆を忘れて身を滅ぼし国を失う者もあった。よって『高祖功臣侯者年表』第六を作る。
  • 恵帝・景帝の間、功臣・宗族の爵邑を整理した。よって『恵景間侯者年表』第七を作る。
  • 北は強い匈奴を討ち南は勁越を誅し夷蛮を征伐し、武功が並んだ。よって『建元以来侯者年表』第八を作る。
  • 諸侯が強大化し七国が連合するに至ったが、子弟が多く封邑を得ない者もいたため、推恩の策により勢力を弱め、徳を京師に帰した。よって『王子侯者年表』第九を作る。
  • 国に賢相・良将があるのは民の模範である。漢興以来の将相名臣の年表を作り、賢者はその治績を記し、不賢な者はその事を明らかにした。よって『漢興以来将相名臣年表』第十を作る。
  • 三代の礼はそれぞれ損益があったが、人情に近く王道に通じることを要とし、人の性質に応じて礼を定め、おおよそ古今の変化に協った。よって『礼書』第一を作る。
  • 楽は風俗を移す働きを持つ。『雅』『頌』の音が興ってからも人は鄭・衛の音を好むようになって久しく、これは人情の感じるところであり、俗から離れると人心も離れる。楽の由来を述べ、『楽書』第二を作る。
  • 兵がなければ強くならず、徳がなければ栄えない。黄帝・湯王・武王は武によって興り、桀・紂・二世は武によって崩れた。慎まねばならない。『司馬法』の由来は古く、太公・孫子・呉子・王子がこれを継承し明らかにし、近世の事情にも及んだ。よって『律書』第三を作る。
  • 律は陰にあって陽を治め、暦は陽にあって陰を治め、律暦は互いに治め合い、その間隙は寸分も許さない。五家の説が食い違うため、太初改暦の議論をまとめた。よって『暦書』第四を作る。
  • 星気の書には吉凶の説が多く混じり正統でないところもあるが、その文を推し天の応を考えると必ずしも外れてはいない。行事に照らし軌度で検証してまとめた。よって『天官書』第五を作る。
  • 天命を受けて王となった者の封禅の符瑞は稀にしか用いられないが、行われれば万神を祀らぬことはない。諸神・名山大川の祭祀の由来を尋ねた。よって『封禅書』第六を作る。
  • 禹が河川を浚渫して九州が安んじ、宣防の堤に至るまで、水を通し溝を開いた事業をまとめた。よって『河渠書』第七を作る。
  • 貨幣の流通は農商を通じさせるためのものだが、行き過ぎると巧詐が生じ、兼併が進んで利を争い本業を捨てて末業に走るようになった。その事の変遷を観るため、『平準書』を作り第八とする。
  • 太伯は歴(王位継承)を避けて江南の蛮地に赴いた。文王・武王の興隆は古公亶父の王業に基づく。闔閭は僚を弑して呉王となり荊楚を服属させ、夫差は斉に勝ったが伍子胥を鴟夷に沈めて死なせ、太宰嚭を信じ越と親しんで呉は滅んだ。太伯の譲りを嘉して『呉世家』第一を作る。
  • 呂尚(太公望)は微賎の身から西伯に帰し文武の師となり、功は諸侯の中で第一で、幽微のうちに権謀を巡らせ、老いてなお営丘に迎えられた。桓公は柯の盟いに背かず九合諸侯し覇功を顕した。田氏と闞氏が寵を争い姜姓は滅んだ。太公の謀を嘉して『斉太公世家』第二を作る。
  • 周公は成王に従いまた時に諫めつつこれを安んじ、文徳を発揮し天下が和した。成王を輔翼し諸侯は周を宗とした。隠公・桓公の頃、なぜか魯は乱れ、三桓が権を争って衰えた。周公の『金縢』の故事を嘉して『周公世家』第三を作る。
  • 武王が紂を克ったが天下がまだ安定せぬうちに崩じた。成王が幼く管叔・蔡叔に疑われ淮夷が背いたが、召公が徳を率いて王室を安んじ東方を鎮めた。燕王噲の禅譲は禍乱を招いた。『甘棠』の詩を嘉して『燕世家』第四を作る。
  • 管叔・蔡叔は武庚を助け旧商の民を安んじようとしたが、周公摂政に叔らは従わず、周公は管叔を殺し蔡叔を追放した。大任の十人の子により周は宗族で強くなった。蔡仲が過ちを悔いたことを嘉して『管蔡世家』第五を作る。
  • 王者の後継は絶えず、舜・禹の徳が説かれる。その徳が明らかであれば苗裔も栄えを受け継ぐ。陳・杞は代々祭祀を受け継いだが楚に滅ぼされた。斉の田氏が興ったことと合わせ、舜の後裔について『陳杞世家』第六を作る。
  • 殷の遺民を収め康叔が邑を興し、酒の害を戒めた『酒誥』が告げられた。衛の頃公の頃から不安定になり、南子は蒯聵を憎み父子で名を入れ替えるほどの争いとなった。周の徳が衰え戦国が強まる中、衛は小国ながら最後まで滅びずに残った。『康誥』を嘉して『衛世家』第七を作る。
  • ああ箕子よ、ああ箕子よ。正論が用いられず、かえって狂人を装って奴隷となった。武庚の死後、周は微子を封じた。襄公は泓の戦いで傷ついたが君子はこれを称えた。景公は謙徳により熒惑(火星)の災いを退けた。剔成の暴虐で宋は滅んだ。微子が太師に道を問うたことを嘉して『宋世家』第八を作る。
  • 武王の崩後、叔虞が唐に封じられた。君子はその子の命名を譏ったが、後に武公が滅んだ。驪姫の寵愛により晋は五世にわたり乱れたが、重耳(文公)は艱難の末に覇者となった。六卿が権を専らにし晋国は衰えた。文公が珪鬯を賜ったことを嘉して『晋世家』第九を作る。
  • 重黎・呉回の後裔が続き、殷末には鬻子がこれを継いだ。周は熊繹を用い熊渠がこれを継いだ。荘王の賢によって陳を復興させ、鄭伯を赦し華元に班師させた。懐王は客死し、屈原は令尹子蘭に咎められた。讒言を好んで信じ、楚はついに秦に併合された。荘王の義を嘉して『楚世家』第十を作る。
  • 少康の庶子が南海に封ぜられ、文身断髪して黿鼉と共に暮らし、封禺山を守って禹の祭祀を奉じた。句践は苦難に陥ったが范蠡・文種を用い、夷蛮の身ながら徳を修めて強い呉を滅ぼし周室を尊んだ。それを嘉して『越王句践世家』第十一を作る。
  • 桓公が東遷し太史にこれを占わせた。周の禾を侵し王の使者に非難された。祭仲は要盟のため鄭は長く振るわなかった。子産の仁は世に称えられた。三晋の侵伐により鄭は韓に併合された。厲公が恵王を復位させたことを嘉して『鄭世家』第十二を作る。
  • 造父の御術(駿馬騄耳)が趙の名を興した。趙夙は献公に仕え、趙衰がその跡を継いだ。文公を佐けて王を尊び晋の重臣となった。襄子は困辱を受けたが智伯を捕らえた。主父(武霊王)は幽閉され餓死し、爵位を探るような末路となった。王遷は淫乱で良将を退けた。趙鞅が周の内乱を討ったことを嘉して『趙世家』第十三を作る。
  • 畢万が魏に封ぜられたことは占い師が予知していた。絳での内訌に戎翟も呼応した。文侯は義を慕い子夏を師とした。恵王は驕り斉秦に攻められた。信陵君を疑ったため諸侯の援を失った。ついに大梁は滅び王仮は捕虜となった。魏武子が晋文公を佐け覇道を進めたことを嘉して『魏世家』第十四を作る。
  • 韓厥の陰徳により趙武が興った。断絶した家を継ぎ廃されたものを立て、晋人はこれを尊んだ。昭侯の代に申子(申不害)がこれを治めた。疑って信じなかったため秦人に襲われた。韓厥が晋を輔け周天子の賦役を正したことを嘉して『韓世家』第十五を作る。
  • 陳完(田氏の祖)は難を避けて斉に赴き重んじられた。陰徳を五代にわたり施し斉人はこれを歌った。田成子が政を得て田和が諸侯となった。王建は心を動かされて共の地に遷された。威王・宣王が濁世を治め宗周を明らかにしたことを嘉して『田敬仲完世家』第十六を作る。
  • 周室が衰え諸侯が勝手にふるまう中、孔子は礼楽の崩壊を悼み経術を修めて王道に達しようとし、乱世を正し、その文辞は天下のために儀法を制し、『六芸』の統紀を後世に伝えた。よって『孔子世家』第十七を作る。
  • 桀・紂が道を失って湯・武が興り、周が道を失って『春秋』が作られた。秦が政を失って陳渉が挙兵し諸侯が乱を起こし、風のように起こり雲のように盛んになって秦の一族を滅ぼした。天下の乱の端緒は陳渉の挙兵から始まった。よって『陳渉世家』第十八を作る。
  • 成皋の台で薄氏が基を築いた。意に反して代に赴いたが、竇氏が興隆する礎となった。栗姫は寵を頼んで驕り王氏が代わって台頭した。陳皇后は驕慢で、ついに衛子夫が尊ばれた。その徳を嘉して『外戚世家』第十九を作る。
  • 漢は謀略で韓信を陳で捕らえた。楚の地は荊人が剽軽であったため、弟の交を楚王に封じ彭城を都とさせ淮泗を強め漢の藩屏とした。王戊が邪に溺れたが、礼がその跡を継いだ。劉游(楚元王)が高祖を輔けたことを嘉して『楚元王世家』第二十を作る。
  • 高祖の軍旅を助けたのは劉賈である。英布に襲われ荊・呉を失った。営陵侯(劉沢)は呂后に取り入り琅邪王となったが、誘われて赴いた先から関中に入り、文帝が立つと燕王に復した。天下がまだ定まらぬ中、劉賈・劉沢は一族として漢の藩輔となった。よって『荊燕世家』第二十一を作る。
  • 天下が平定され親族が少なかったため、悼恵王は早くから壮んで東方を鎮めた。哀王は兵を挙げ諸呂に怒りをぶつけたが、駟鈞の暴戻を京師は許さなかった。厲王の内乱により禍が成った。悼恵王が漢の股肱であったことを嘉して『斉悼恵王世家』第二十二を作る。
  • 楚が滎陽の我が軍を三年にわたり囲んだ間、蕭何は関中を鎮め計略を巡らして兵を送り続け食糧を絶やさず、百姓に漢を慕わせ楚に与しないようにした。よって『蕭相国世家』第二十三を作る。
  • 韓信と共に魏を平定し趙を破り斉を下し楚を弱めた。蕭何の後を継いで相国となり、政を変えず民は安んじた。曹参が功を誇らなかったことを嘉して『曹相国世家』第二十四を作る。
  • 帷幄の中で策を巡らし目に見えぬところで勝ちを制した。張良(子房)は謀を用い、名声や武勇を誇らず、難事を易しいうちに図り大事を細やかなうちに為した。よって『留侯世家』第二十五を作る。
  • 六度の奇策が用いられ諸侯は漢に服した。呂氏の変では陳平が本謀となり、ついに宗廟・社稷を安んじた。よって『陳丞相世家』第二十六を作る。
  • 諸呂が結託し京師を弱めようとしたが、周勃は権を用いて正道に戻した。呉楚の乱では亜夫が昌邑に駐屯し斉・趙を苦しめる一方、梁に委ねてこれを防がせた。よって『絳侯世家』第二十七を作る。
  • 七国の反乱で京師の藩屏となったのは梁だけであった。梁孝王は愛顧を頼み功を誇り危うく禍を被るところであった。呉楚を防いだ功を嘉して『梁孝王世家』第二十八を作る。
  • 五宗(景帝の五人の妃から生まれた諸子)が王となり親族は和合し、諸侯の大小がそれぞれ藩屏となって適宜を得、僭越の事は次第に衰えていった。よって『五宗世家』第二十九を作る。
  • 三人の皇子が王となったことについて、その文辞には見るべきものがある。よって『三王世家』第三十を作る。
  • 末世が利を争う中、伯夷・叔斉だけは義に赴いた。国を譲り餓死したことを天下は称えた。よって『伯夷列伝』第一を作る。
  • 晏子は倹約家であり、管仲(夷吾)は奢侈であった。斉の桓公は管仲によって覇を唱え、景公は晏子によって治まった。よって『管晏列伝』第二を作る。
  • 老子は無為でおのずと化し清浄でおのずと正しくあることを説き、韓非は事情を推し量り理法に従った。よって『老子韓非列伝』第三を作る。
  • 古来の王者に『司馬法』があったが、穣苴はこれをよく明らかにした。よって『司馬穣苴列伝』第四を作る。
  • 信・廉・仁・勇がなければ兵を用い剣を論じることはできない。孫子・呉起の道は大道と符合し、内は身を治め外は変に応じるのに用いられ、君子はその徳をよしとした。よって『孫子呉起列伝』第五を作る。
  • 太子建は讒言に遭い、その禍は父の奢に及んだ。子の尚は父を思って留まり、伍員(子胥)は呉に逃れた。よって『伍子胥列伝』第六を作る。
  • 孔子が文を伝え弟子たちが学業を興し、皆師伝を守って仁を崇め義を励んだ。よって『仲尼弟子列伝』第七を作る。
  • 公孫鞅は衛を去って秦に赴きその法術を明らかにし、孝公を強め覇たらしめ、後世もその法に従った。よって『商君列伝』第八を作る。
  • 天下が飽くなき秦の圧力に苦しむ中、蘇秦は諸侯を存続させ合従の策で貪欲な秦を抑えた。よって『蘇秦列伝』第九を作る。
  • 六国が合従を結んでいたのを、張儀がその説(連衡)を明らかにし諸侯を再び分裂させた。よって『張儀列伝』第十を作る。
  • 秦が東方の強国を圧倒できたのは、樗里子・甘茂の計略によるものである。よって『樗里甘茂列伝』第十一を作る。
  • 黄河・崤山の要害を抱え大梁を包囲し、諸侯を屈服させて秦に仕えさせたのは魏冉の功である。よって『穣侯列伝』第十二を作る。
  • 南は鄢郢を落とし北は長平で趙を破り邯鄲を包囲したのは白起(武安君)の統率による。荊(楚)を破り趙を滅ぼしたのは王翦の計略である。よって『白起王翦列伝』第十三を作る。
  • 儒家・墨家の遺文を渉猟し礼義の統紀を明らかにし、恵王の利害を説く議論を退け、過去の興亡を並べた。よって『孟子荀卿列伝』第十四を作る。
  • 客を好み士を愛し、士は薛に帰した。斉のために楚・魏を防いだ。よって『孟嘗君列伝』第十五を作る。
  • 馮亭をめぐる権謀を争い、楚に赴いて邯鄲の包囲を救い、その主君を再び諸侯に称えさせた。よって『平原君虞卿列伝』第十六を作る。
  • 富貴の身でありながら貧賎の者にへりくだり、賢能な者が不肖の者にへりくだる、それをよくなしえたのは信陵君だけである。よって『魏公子列伝』第十七を作る。
  • 身を挺して主君に尽くし、強秦から脱出させた。遊説の士を南方の楚に向かわせたのは黄歇の義である。よって『春申君列伝』第十八を作る。
  • 魏斉に受けた辱めを忍び、強秦で威信を確立し、賢に譲位したのはこの二人(范雎・蔡沢)である。よって『范雎蔡沢列伝』第十九を作る。
  • その謀を実行し五国の兵を連合させ、弱い燕のために強い斉への恨みを晴らし、先君の恥を雪いだ。よって『楽毅列伝』第二十を作る。
  • 強秦に対して意志を貫き、廉頗に対して身を屈し、その主君のために尽くし、共に諸侯に重んじられた。よって『廉頗藺相如列伝』第二十一を作る。
  • 湣王が臨淄を失い莒に逃れた際、田単だけが即墨を用いて騎劫を破走させ、斉の社稷を存続させた。よって『田単列伝』第二十二を作る。
  • 詭弁を設けて囲城の患を解き、爵禄を軽んじて志を楽しんだ。よって『魯仲連鄒陽列伝』第二十三を作る。
  • 辞を作って風諫し、類を連ねて義を争ったことは『離騒』に見える。よって『屈原賈生列伝』第二十四を作る。
  • 子楚と親しくなり、諸侯の士を争って秦に仕えさせた。よって『呂不韋列伝』第二十五を作る。
  • 曹沫は匕首で魯の失地を取り戻し、斉はその信を明らかにした。豫譲は二心を持たない義を貫いた。よって『刺客列伝』第二十六を作る。
  • その策謀を明らかにし時勢に乗じて秦を推し進め、海内で志を得たのは李斯が謀の首魁であった。よって『李斯列伝』第二十七を作る。
  • 秦のために地を開き民を増やし、北は匈奴を退け、河を要塞とし山を頼りとして榆中を建てた。よって『蒙恬列伝』第二十八を作る。
  • 趙を鎮め常山の塞を固めて河内を広げ、楚の勢力を弱め漢王の信義を天下に明らかにした。よって『張耳陳余列伝』第二十九を作る。
  • 西河・上党の兵を収め彭城に至った。彭越は梁の地を侵掠して項羽を苦しめた。よって『魏豹彭越列伝』第三十を作る。
  • 淮南(黥布)が楚に叛いて漢に帰し、漢は大司馬の殷を得て、ついに項羽を垓下で破った。よって『黥布列伝』第三十一を作る。
  • 楚人が我が京・索を迫った時、韓信は魏・趙を抜き燕・斉を平定し、漢に天下の三分の二を持たせて項籍を滅ぼした。よって『淮陰侯列伝』第三十二を作る。
  • 楚漢が鞏・洛で対峙する中、韓王信は潁川を鎮め、盧綰は項籍の食糧補給を絶った。よって『韓信盧綰列伝』第三十三を作る。
  • 諸侯が項王に叛く中、斉だけが項羽と城陽で連戦し、漢はその隙に乗じて彭城に入った。よって『田儋列伝』第三十四を作る。
  • 攻城野戦で功を挙げ、樊噲・酈商は力戦し、鞭を振るうだけでなく高祖を危難から脱出させた。よって『樊酈列伝』第三十五を作る。
  • 漢が初めて定まり法制が未整備であった時、張蒼が主計となり度量衡を整え律暦を定めた。よって『張丞相列伝』第三十六を作る。
  • 言葉を通じ使者を送って諸侯を懐柔し、諸侯は皆親しんで漢の藩輔となった。よって『酈生陸賈列伝』第三十七を作る。
  • 秦楚の事を詳しく知るため、周緤が常に高祖に従い諸侯を平定した経緯を記した。よって『傅靳蒯成列伝』第三十八を作る。
  • 強族を移し関中に都を置き、匈奴と和約を結び、朝廷の礼を明らかにし宗廟の儀法を定めた。よって『劉敬叔孫通列伝』第三十九を作る。
  • 剛を摧いて柔となりながら列臣となり、欒布は勢に屈せず彭越の死に義理を尽くした。よって『季布欒布列伝』第四十を作る。
  • 顔色を犯してまで主君の義を通し、我が身を顧みず国家のために長期の策を立てた。よって『袁盎鼂錯列伝』第四十一を作る。
  • 法を守り大義を失わず、古の賢人の事を語って主君の明を増した。よって『張釈之馮唐列伝』第四十二を作る。
  • 篤実で慈孝、言葉少なく行いに敏く、恭しく身を慎むことに努めた君子・長者であった。よって『万石張叔列伝』第四十三を作る。
  • 節を守り正直で、義は廉と言うにふさわしく、行いは賢を励ますに足り、重責を負っても道理に外れて曲げられなかった。よって『田叔列伝』第四十四を作る。
  • 扁鵲は医を語り医家の宗とされ、術数を精しく守った。後世これに従い変えることができず、倉公はこれに近いと言える。よって『扁鵲倉公列伝』第四十五を作る。
  • 高祖の兄仲の子として、劉濞は呉王となり、漢の草創期に江淮の地を鎮撫した。よって『呉王濞列伝』第四十六を作る。
  • 呉楚の乱の際、宗族の中で竇嬰(魏其侯)だけが賢く士を愛したため士人はこれに帰し、山東を率いて滎陽で抗した。よって『魏其武安列伝』第四十七を作る。
  • 知恵は近世の変事に応じるに足り、寛容さは人を得るに用いるに足りた。よって『韓長孺列伝』第四十八を作る。
  • 敵に当たって勇敢で、士卒を仁愛し、号令は煩わしくなく、兵士たちはこれに帰服した。よって『李将軍列伝』第四十九を作る。
  • 三代以来、匈奴は常に中国の患害であった。強弱の時期を知り備えと征討を設けるため、『匈奴列伝』第五十を作る。
  • 曲がった塞を直し河南を広げ、祁連山を破り西域に通じ、北の胡を退けた。よって『衛将軍驃騎列伝』第五十一を作る。
  • 大臣・宗室が奢侈を競う中、公孫弘(平津侯)だけは節約した衣食で百官の先頭に立った。よって『平津侯列伝』第五十二を作る。
  • 漢が中国を平定した後、趙佗は楊越を集めて南方の藩を保ち、貢物を納めた。よって『南越列伝』第五十三を作る。
  • 呉王濞の叛逆の際、東甌人は濞を斬り、封禺の地を守って臣となった。よって『東越列伝』第五十四を作る。
  • 燕太子丹に連なる遼東の地が乱れる中、衛満は逃亡民を集め海東(朝鮮)に拠って藩を成し、塞を守って外臣となった。よって『朝鮮列伝』第五十五を作る。
  • 唐蒙が夜郎への道を開き、邛・笮の君主は内臣となって漢の官吏を受け入れることを願った。よって『西南夷列伝』第五十六を作る。
  • 『子虚賦』『大人賦』の説くところは華美で誇張が多いが、その趣旨は風諫にあり、無為に帰する。よって『司馬相如列伝』第五十七を作る。
  • 黥布の反乱の後、劉長がその国を治め、江淮の南を鎮め、剽悍な楚の民を安んじた。よって『淮南衡山列伝』第五十八を作る。
  • 法に従い理に循う官吏は功を誇らず、百姓から称賛も咎めも受けない。よって『循吏列伝』第五十九を作る。
  • 衣冠を正して朝廷に立ち、群臣が浮ついた説を口にできぬようにしたのは汲黯(長孺)の威であった。人を推挙することを好み、長者と称された者にも見どころがあった。よって『汲鄭列伝』第六十を作る。
  • 孔子の死後、都では学校(庠序)が重んじられなかったが、建元・元狩の頃には文辞が盛んになった。よって『儒林列伝』第六十一を作る。
  • 民が本を忘れて巧詐に走り、姦邪が法をもてあそぶようになると、善人では感化できず、厳格な取り締まりだけがこれを整えることができた。よって『酷吏列伝』第六十二を作る。
  • 漢が大夏に使者を通じてから、西方の遠い異民族も首を伸ばして中国を仰ぎ見るようになった。よって『大宛列伝』第六十三を作る。
  • 人を困窮から救い、乏しい者を助けるのは仁であり、信を違えず言葉に背かないのは義である。よって『游侠列伝』第六十四を作る。
  • 主君に仕えて主君の耳目を喜ばせ顔色を和ませて親近を得るのは、色を好まれただけでなく、それぞれに長所があったからである。よって『佞幸列伝』第六十五を作る。
  • 世俗に流されず権勢や利益を争わず、上下の間で滞りなく、人に害を与えず、道を用いた。よって『滑稽列伝』第六十六を作る。
  • 斉・楚・秦・趙で占い(日者)を業とする者はそれぞれの土地の風習に従った。その大旨を観るために『日者列伝』第六十七を作る。
  • 三代の王はそれぞれ異なる亀卜を用い、四方の異民族もそれぞれ異なる占いを用いたが、いずれも吉凶を決するためのものであった。その要点を窺い『亀策列伝』第六十八を作る。
  • 庶民でありながら政治を害さず百姓の妨げにもならず、時機を捉えて財を殖やす者を、智者は評価する。よって『貨殖列伝』第六十九を作る。

自序の結びと『太史公書』の全体構成

  • 我が漢は五帝の末流を継ぎ、三代の絶えた業を継承した。周の道が廃れ、秦は古文を廃して『詩』『書』を焼き払ったため、明堂石室・金匱玉版の図籍は散逸した。漢が興ると、蕭何が律令を整理し、韓信が軍法を明らかにし、張蒼が度量衡・暦法の章程を定め、叔孫通が礼儀を制定し、文学は次第に整い『詩』『書』も次第に世に現れるようになった。曹参は蓋公を推挙して黄老の説を伝え、賈誼・鼂錯は申不害・商鞅の法を明らかにし、公孫弘は儒学によって顕れた。この百年の間、天下の遺文・古事はことごとく太史公のもとに集まった。太史公(父子)は代々その職を継承した。
  • (司馬遷は)言う。「ああ、私の先人はかつてこの事を掌り、虞夏の代に功名を顕し、周に至って再びこれを司った。ゆえに司馬氏は代々天官を主った。私に至って、謹んで思わねばならぬ、謹んで思わねばならぬ」
  • こうして天下に散逸した旧聞を網羅し、王者の事跡の興りを始めから終わりまで考察し、盛衰を観て、行事を論考し、三代を大まかに推し量り秦漢を詳しく記録し、上は軒轅(黄帝)に始まり下は今に至るまでを著した。十二の本紀を著しすでに条項を立てた。時代が並び立ち年代の差が明らかでないものについては十の表を作った。礼楽の損益、律暦の改変、兵権・山川・鬼神、天人の関係、旧弊を承けて変化に通じることについて八の書を著した。二十八宿が北極星を環る如く、三十本の輻が一つの轂に集まる如く、その運行は窮まりなく、それを支える輔弼股肱の臣が忠信をもって道を行い主君に仕えたことを三十の世家に著した。義を扶け卓抜で、時を失わず功名を天下に立てた者たちのことを七十の列伝に著した。
  • 全体で百三十篇、五十二万六千五百字、これを『太史公書』とする。序略により拾遺補芸し、一家の言を成し、六経の異伝を協調させ、諸家の雑多な説を整え、名山にこれを蔵し副本を京師に置いて、後世の聖人君子を俟つ。第七十。