雨中の陛楯者を憐れむ
- その後二百余年して秦に優旃が現れた。優旃は秦の道化の侏儒で、笑い話に長じながらも大道に適う言葉を発した。秦始皇帝が酒宴を開いた日に雨が降り、陛(宮殿の階段)を守る楯持ちの兵が濡れて寒さに震えていた。優旃はこれを憐れみ「休みたいか」と尋ねると、兵たちは「ぜひとも」と答えた。優旃は「私が呼んだら急いで『はい』と答えよ」と言い含め、頃合いを見て高欄から「陛楯郎!」と大声で呼ぶと兵は「はい」と応じた。優旃は続けて「お前たちは背が高くても何の得もない、雨に濡れて立っているだけだ。私は背が低くても休んでいられる」と言うと、始皇帝は交代で休ませることを許した。
苑囿・漆城の諫言
- 始皇帝がかつて函谷関から西の雍・陳倉に至るまで巨大な苑囿を造ろうと議論した際、優旃は「結構です、禽獣をたくさん放てば、東から敵が来ても麋鹿に突かせれば済みます」と述べ、始皇帝はこれを聞いて計画を取りやめた。
- 二世皇帝が城壁を漆で塗ろうとした際、優旃は「結構です、陛下がおっしゃらずとも私からお願いしたいくらいです。漆で城を塗るのは民には負担でしょうが見た目は美しく、敵も滑って登れません。ただし塗り終えた城を乾かすための巨大な陰室を作るのが難儀です」と述べると、二世は笑ってこれを取りやめた。まもなく二世は殺され、優旃は漢に帰属し数年後に没した。
史論(篇末)
- 太史公は言う。淳于髡は天を仰いで大笑いし斉威王を天下に号令させ、優孟は頭を振って歌い薪売りの子を封地に至らしめ、優旃は高欄から大声で叫んで陛楯者の負担を半分にした。何と偉大なことであろうか。
褚少孫補記――前置き
- 褚先生は言う。私は経術によって郎となる幸運を得たが、外家の伝説を読むことを好んだ。僭越ながら故事・滑稽の話を六章記し、この篇の後に付す。後世の好事家が読んで気を紛らわせ耳を楽しませ、太史公の三章に付け加えるものである。
郭舍人と大乳母
- 武帝の頃、寵愛された道化の郭舍人は、言葉こそ大道には合わなかったが人主を和ませた。武帝が幼い頃に養育した東武侯の母は成人後「大乳母」と呼ばれ、月に二度参内した。ある時、幸臣馬游卿を通じて帛五十匹を賜り、飲食も奉じられた。乳母が「某所に公田があり、それを借りたい」と上書すると、武帝は「乳母はそれが欲しいのか」と述べて与えた。乳母の願いは常に聞き入れられ、馳道を車で通ることさえ許され、公卿大臣も乳母を敬った。しかし乳母の一族・従者は長安で横暴を働き、車馬を奪うなどしたため、有司は乳母一家を辺境に移すことを上奏し裁可された。乳母は入朝して別れの挨拶をする前に郭舍人に会い涙を流した。郭舍人は「別れの挨拶をして退出する時は、急ぎ足で何度も振り返るように」と教えた。乳母がその通りにすると、郭舍人はわざと大声で「咄、老いぼれ女め、なぜさっさと行かぬのだ、陛下はもう成人された、いつまでもお前の乳が要るとでも思っているのか、何を振り返る」と罵った。これを聞いた武帝は哀れに思い、乳母の移住を取りやめ、かえって讒言した者を罰する詔を出した。
東方朔――登用と奇行
- 武帝の頃、斉の人東方朔は古い伝承を好み経術を愛し、外家の言葉に博識であった。長安に来て公車(上奏受付)に上書した際、その量は三千枚の木簡に及び、二人がかりで運ぶほどであった。天子は毎日少しずつ読み、二か月かけて読み終え、朔を郎に任じ側近として仕えさせた。しばしば呼ばれて語らい、天子は常に喜んだ。食事を賜れば残った肉を懐に入れて持ち帰り衣を汚し、絹を賜ればそのまま担いで持ち去った。賜った金品はすべて長安の若く美しい女を娶るために使い、一年ほどで妻を捨てては新たに娶ることを繰り返し、賜った財はことごとく女につぎ込んだ。側近の郎官たちは半ば朔を「狂人」と呼んだが、これを聞いた武帝は「朔にこのような行いをさせずにいられたら、お前たちがとても及ぶものではない」と述べた。朔は自分の子を郎に、また待謁者に任じさせ、常に節を持って使いに出した。ある時、宮中を歩く朔に郎官が「皆があなたを狂人と言っている」と告げると、朔は「私のような者は朝廷の中に隠れ住む隠者というべきだ。昔の人は深山に隠れたが」と答え、酒席で「俗世に埋もれて金馬門に世を避ける、宮殿の中でも身を全うして世を避けられる、何も深山の奥に住む必要はない」と歌った。金馬門とは宦者の役所の門で、傍らに銅馬があったことからこう呼ばれた。
東方朔――諸博士との問答
- ある時、宮中の博士たちが集まり朔を難詰して「蘇秦・張儀は一人で万乗の君に仕え卿相の位に昇り恩沢を後世に及ぼした。今、あなたは先王の術を修め聖人の義を慕い『詩』『書』百家の言に通じ、それを竹帛に著して天下に並ぶ者なしと自負するほどの博識でありながら、長年聖帝に忠誠を尽くしても官は侍郎に過ぎず地位は執戟にとどまる、何か過失でもあるのか」と問うた。東方朔は「あなた方には分からないことだ、時代が違うのだ」と答え、「蘇秦・張儀の時代は周室が衰え諸侯が朝せず、力で争い十二国が並び雌雄未定であったから、人材を得た者が強く失った者が滅び、進言が通れば尊位に就き恩沢は子孫にまで及んだ。しかし今は違う。聖帝が上におられ徳が天下に流れ、諸侯は服し威は四夷に及び、天下は一つにまとまり、事を動かすのは掌の中で物を扱うようなものだ。賢者も愚者も違いはない。天下広く士民多く、才を尽くして仕官を求める者は数え切れず、義を尽くしても衣食に窮し官を得られぬ者もいる。もし蘇秦・張儀を今の世に生まれさせても、掌故(下級官職)すら得られず、常侍郎などとても望めまい」と論じた。さらに「『天下に災いなければ聖人がいても才を発揮できず、上下和すれば賢者がいても功を立てられない』という言葉の通り、時代が異なれば事情も異なる。とはいえ修身を怠ってよいわけではない。『詩』にも『鐘を宮中で鳴らせば、その音は外に聞こえる』『鶴が沢で鳴けば、その声は天に聞こえる』とある。身を修めれば栄えぬはずがない。太公望は仁義を七十二年実践し続けてようやく文王に見出され斉に封ぜられ七百年続いた。士が日夜努め学び道を行うのはこのためだ。今の世の隠士も、時に用いられなくとも独り自立し、上は許由に倣い下は接輿を見習い、范蠡のような策を持ち伍子胥のような忠を抱きながら、天下太平の世では義に適う道として寡黙に過ごすのが常である、私を疑うことはない」と述べると、諸博士は黙り込み答える者がなかった。
東方朔――騶牙を言い当てる
- 建章宮の後閤の重櫟の中に見慣れぬ獣が現れ、麋(大鹿)に似た姿であった。報告を受けた武帝が自ら見に行き、経術に通じた群臣に尋ねたが誰も分からなかった。東方朔に問うと「分かりますが、まず美酒と粱の飯をたっぷりいただければ申し上げましょう」と言い、許されると、さらに「某所にある公田・魚池・葦原を賜れば申しましょう」と重ねて求め、これも許されてようやく答えた。「これは騶牙という獣です。遠方の国が帰服しようとする前触れとして騶牙が現れるのです。前歯と奥歯が同じ大きさで揃っているため騶牙と呼ばれます」。その後一年ほどして匈奴の混邪王が十万の民を率いて漢に降伏し、武帝は東方朔に多くの財を賜った。
東方朔――臨終の諫言
- 老いて死に臨んだ東方朔は「『詩』に『飛び回る蠅よ、垣にとまれ。徳ある君子よ、讒言を信じるな。讒言は際限なく四方の国を乱す』とあります。どうか陛下は巧言令色の輩を遠ざけ讒言を退けてください」と諫めた。武帝は「近頃の東方朔はやけに立派なことを言う」と怪しんだが、まもなく朔は病死した。「鳥の死に際の鳴き声は哀しく、人の死に際の言葉は善い」という伝えの通りであった。
東郭先生――衛青への献策
- 武帝の頃、大将軍衛青(衛皇后の兄)は長平侯に封ぜられ、匈奴討伐に従軍して余吾水まで進み斬首・捕虜の功で帰還すると千斤の金を賜った。将軍が宮門を出ると、方士として公車に待命していた斉の人東郭先生が車を遮り「申し上げたいことがあります」と願い出た。将軍が車を止めると東郭先生は「王夫人が新たに寵愛を受けていますが家が貧しい、将軍が賜った千斤のうち半分を王夫人の親族に贈れば、天子はきっとお喜びになります、これは妙策です」と進言した。衛将軍は感謝して「教えに従いましょう」と述べ、五百金を王夫人の親族への贈り物とした。王夫人がこれを武帝に告げると、武帝は「大将軍にこのような機転が利くはずがない」と述べ、誰の策か尋ねると「待詔の東郭先生から受けました」との答えであった。武帝は東郭先生を召し郡都尉に任じた。東郭先生は長く公車で待命する間貧困に苦しみ衣服も破れ靴底も抜けて雪の中を素足同然で歩いていた。道行く人に笑われると東郭先生は「雪の中を歩いて上履きだけがあるように見えて足跡だけは人の素足のように見える、そんな歩き方ができる者がいようか」と切り返した。二千石に任じられ青い印綬を帯びて宮門を出た際には、同僚の待詔たちが都門の外まで見送り、道中の栄華は当代に名を上げるものであった。これはまさに粗末な衣に宝を秘めた者の話である。貧しい時には誰も顧みず、貴くなれば争って媚びる。諺に「馬を見るときは痩せているからと侮るな、人を見るときは貧しいからと侮るな」というのはこのことであろう。
王夫人――斉王太后
- 王夫人が重病になった際、武帝が自ら見舞い「あなたの子はいずれ王となる、どこに封じたいか」と問うと、王夫人は「洛陽に住みたい」と答えた。武帝は「それはできない、洛陽には武庫・敖倉があり関の要衝で天下の喉元にあたる、先帝以来ここには王を置かない例だ。関東で最も大きいのは斉なので、斉王とするのがよい」と述べた。王夫人は手で頭を打ち「それは何よりです」と喜んだ。王夫人の死後、「斉王太后が薨じた」と発表された。
淳于髡――献鵠の故事(褚少孫補)
- 昔、斉王は淳于髡に鵠(白鳥)を楚へ献上させた。邑門を出たところで鵠を逃してしまい、空の籠だけを掲げて楚王のもとへ行き、こう偽り申し上げた。「斉王の命で鵠を献上に参りましたが、途中の水辺で喉が渇いていた鵠が可哀そうで放って水を飲ませたところ、逃げて飛び去ってしまいました。腹を切って死のうかとも思いましたが、鳥獣のために士が自ら傷つき死んだと我が王が非難されるのを恐れました。似た鳥を買って身代わりにしようかとも思いましたが、それでは我が王を欺くことになります。他国へ逃亡しようかとも思いましたが、両国の使者往来が途絶えることを痛みました。ゆえにこうして参り、過ちを申し上げ、大王の御前で罪をお受けする次第です」。楚王は「見事だ、斉王にはこれほどの信義の士がいるのか」と述べ、鵠の代金の倍もの褒美を与えた。
北海太守と文学卒史王先生
- 武帝の頃、北海太守が行在所(天子の在所)に召された。文学卒史の王先生という者が「私はあなたのお役に立てます」と自ら申し出て同行を願い、太守はこれを許した。府の掾・功曹たちは「王先生は酒好きで大言ばかりで実がない、同行させるべきではありません」と諫めたが、太守は「本人が行きたいと言うのだから止めるわけにはいかない」と共に連れて行った。行在所の宮府の門前で待命する間、王先生はもっぱら銭を懐にして酒を買い、衛卒の隊長と飲んで日々酔い、太守の世話をしなかった。太守が入って拝謁する際、王先生は門番の役人に「私の主君を門内から呼んで少し話をさせてほしい」と頼んだ。太守が呼び出されて来ると、王先生は「天子が『どうやって北海を治め盗賊をなくしたのか』と問われたら何と答えるつもりか」と尋ねた。太守が「賢才を選び各々の能力に応じて任用し、優れた者を賞し不肖の者を罰しました、と答えるつもりだ」と言うと、王先生は「そのように答えては自らの功を誇ることになり良くありません。『私の力ではなく、すべて陛下の神霊と威武による変化の賜物です』とお答えなさい」と助言した。太守はこれに従うことにし、宮中に召されて天子の御前に進むと「どのように北海を治め盗賊を起こさせなかったのか」と問われ、「私の力ではなく、すべて陛下の神霊と威武による変化の賜物です」と答えた。武帝は大笑いし「ほう、どこでそんな長者の言葉を覚えたのか、誰に教わったのか」と尋ねた。太守が「文学卒史に教わりました」と答えると、武帝は「今どこにいるか」と問い、「宮府の門外におります」との答えに、王先生を水衡丞に、北海太守を水衡都尉に任じた。伝えに言う、「美しい言葉は人望を得る値打ちがあり、立派な行いは人に加える値打ちがある。君子は言葉で人を送り、小人は財で人を送る」と。
西門豹――河伯の嫁取りを止める
- 魏の文侯の時代、西門豹は鄴の令となった。鄴に着くと長老たちを集め民の苦しみを尋ねると「河伯(黄河の神)に嫁を娶らせる行事のために貧しくなっています」との答えであった。理由を問うと、「鄴の三老・廷掾が毎年民から税を集め数百万銭を得て、その二、三十万銭を河伯の嫁取りに使い、残りは祝巫(巫女)と山分けしています。その時期になると巫女が村を回って器量の良い娘を『河伯の嫁にふさわしい』と見立てて娶らせ、沐浴させて新しい絹の衣を着せ、しばらく別室で潔斎させ、河のほとりに斎宮を建て赤い帳を張って娘をその中に置き、牛や酒・食事を用意して十日余り経ってから、嫁入りの寝床のように飾り立てた台に娘を乗せて川に流します。流し始めて数十里で沈んでしまいます。器量の良い娘のいる家は大巫女に娶られることを恐れ、多くが娘を連れて遠くへ逃げてしまい、これゆえに町は人が減って貧しくなったのです。民の間では『河伯の嫁取りをしなければ洪水で民が溺れる』と語られています」との答えであった。西門豹は「河伯の嫁取りの日には三老・巫祝・父老が娘を河のほとりまで送るそうだが、私にも知らせてほしい、私も見送りに行こう」と告げ、皆は承知した。
- その日、西門豹は河のほとりに赴いた。三老・官属・豪族・里の父老、見物の民二、三千人が集まっていた。巫女は七十歳ほどの老女で、弟子の娘十人ほどが皆絹の単衣を着て大巫女の後ろに控えていた。西門豹は「河伯の嫁を呼び、器量を見せよ」と命じ、帳から娘が出されると、豹はこれを見て三老・巫祝・父老に「この娘は器量が良くない、大巫女に河伯へ入って伝え、より良い娘を選び直して後日改めて送るよう申し上げてもらおう」と述べ、吏卒に命じて大巫女を川に投げ込ませた。しばらくして「巫女はなぜ戻らないのか、弟子が催促してこい」と言い弟子を一人投げ込ませ、さらに「弟子もなぜ戻らないのか、もう一人行かせよ」と別の弟子を投げ込ませた。合わせて弟子三人を投げ込ませた。西門豹は「巫女も弟子たちも女なので事情をうまく伝えられないのだろう、三老に頼んで報告してもらおう」と述べ、三老も川に投げ込ませた。西門豹は簪筆(役人の標し)を挟んだ姿勢を正し、河に向かって長く待った。周りの長老・吏はみな恐れおののいた。豹は「巫女や三老が戻らない、どうしたものか」と述べ、廷掾か豪族の一人を送り込ませようとした。皆が地に頭を打ちつけて許しを乞い、額から血を流し顔は死人のように青ざめた。西門豹は「よろしい、しばらく待とう」と述べ、しばらくして「廷掾は立ち上がれ、どうやら河伯は客を長く留めるようだ、皆帰るがよい」と命じた。鄴の吏民は大いに恐れをなし、以後、河伯の嫁取りを口にする者はいなくなった。
西門豹――十二渠の開削
- 西門豹はさらに民を動員し十二本の水路を開かせ、黄河の水を引いて民の田を灌漑し、田はことごとく潤った。工事の当初、民は水路の労役を煩わしく思い望まなかったが、豹は「民は成果を楽しむことはできても、事を始める段階では理解できないものだ、今、父老・子弟には苦労をかけるが、百年後には父老の子孫が私の言葉を思い出すだろう」と述べた。今に至るまで人々は水利の恩恵を受け豊かになっている。十二の水路は馳道(天子専用の道)を横切っており、漢の代になって長吏がこれを問題視し、水路が近接しすぎているとして三本を合わせて一本の橋にまとめようとしたが、鄴の民は西門君の定めた法は変えるべきではないとして長吏の言に従わず、長吏もついにこれを黙認した。西門豹が鄴の令として名を天下に知られ、恩沢が後世に及び絶えることがなかったのは、まさに賢大夫と呼ぶにふさわしい。
- 伝えに言う、「子産が鄭を治めると民は欺くことができず、子賤が単父を治めると民は欺くに忍びず、西門豹が鄴を治めると民は欺く勇気がなかった」と。この三人の才能のいずれが最も優れているかは、政治に通じた者ならば判別できるであろう。