史記卷一百二十二 酷吏列傳第六十二 減宣
減宣
- 減宣は楊の人。佐史・無害(清廉有能)として東河守府に仕え、衛将軍青が河東で馬を買った際にその評判を聞いて上に推挙され、大廐丞に召された。事務処理が的確で御史・中丞に昇進し、主父偃の獄や淮南反乱事件を裁く際に細かな文をもって厳しく詰問し、多くを殺して「敢決疑」(決断力ある裁判官)と称された。何度も廃されては起用され、御史・中丞として二十年近く務めた。王温舒が中尉を免ぜられると減宣は左内史となり、米・塩に至るまで細かく自ら仕切り、官吏を勝手に動かさせず重法で臨んだ。数年の統治で郡中の小事はよく処理されたが、小事を大事にする厳しさは経(常道)とはなりがたかった。
- 一時廃されて右扶風となり、成信への恨みから成信が上林苑に逃げ隠れると郿県令に射殺させたが、その際に射た矢が上林苑の門に当たったため、大逆罪とされ族刑にあたると自ら判断して自殺した。以後、杜周が用いられるようになった。