史記卷一百二十二 酷吏列傳第六十二 周陽由

周陽由

  • 周陽由の父趙兼は淮南王の外舅として周陽侯に封ぜられたため周陽氏を名乗った。由は宗家として郎に任じられ孝文帝・景帝に仕え、景帝の時に郡守となった。武帝即位の頃、吏の統治はなお慎み深かったが、由は二千石の中で最も暴酷・驕慢であった。愛する者は法を曲げて生かし、憎む者は法を曲げて誅滅した。赴任した郡では必ずその豪族を滅ぼした。太守となれば都尉を令のように見下し、都尉となれば太守を凌いでその権を奪った。汲黯・司馬安と並んで悪評高く、同車しても敷物を分け合おうともしなかった。
  • 後に河東都尉となり、太守勝屠公と権を争い互いに罪を告発しあった。勝屠公は義として刑を受けず自殺し、由は棄市(公開処刑)に処された。
  • 寧成・周陽由の後、事件が増え民が法を欺く術に長け、吏の統治もおおむね彼らに類するものとなった。