出自と生い立ち
- 司馬相如、字は長卿。蜀郡成都の人。幼少より読書と撃剣を好み、幼名は犬子といったが、藺相如の人柄を慕って相如と改名した。
- 資産により郎となり孝景帝に仕え武騎常侍となったが、辞賦を好まぬ景帝のもとでは志を得なかった。
- 梁に遊説に来ていた孝王に従う鄒陽・枚乗・莊忌ら遊説の士と交わりを結び、病と称して景帝のもとを辞し、梁に客遊して諸生と共に過ごし、その間に「子虚賦」を著した。
卓文君との結婚
- 梁孝王の死後、相如は帰郷したが家は貧しく生業がなかった。臨邛令王吉と親しく、その招きで臨邛に赴く。
- 臨邛の富豪卓王孫・程鄭が令とともに宴を催し相如を招く。相如は琴で卓王孫の娘・文君(新たに寡婦となっていた)の心を動かし、文君は夜に相如のもとへ奔り成都へ共に帰った。
- 卓王孫は激怒し財産を分け与えなかったため、相如と文君は臨邛に戻り酒屋を開業。相如自ら犢鼻褌姿で下働きをして卓王孫に恥をかかせ、周囲の説得で卓王孫はついに童僕百人・銭百万・嫁入り道具を文君に分与した。二人は成都に帰り富人となった。
「子虚賦」による武帝への出仕
- 蜀出身の楊得意が狗監として武帝に仕え、武帝が「子虚賦」を読んで感嘆し「この作者と時を同じくできぬとは」と言ったところ、得意は同郷の司馬相如が作者であると告げた。
- 武帝は相如を召し、相如は「子虚賦」は諸侯の事に過ぎぬとして、改めて天子の遊猟を主題とする賦を作ることを願い出て、これを完成させた。
子虚賦・上林賦(要約)
- 相如は「子虚」(虚言の意で楚を代表)・「烏有先生」(そのような事はないの意で斉に反論)・「無是公」(そのような人物はいないの意で天子の大義を説く)という三人の架空の人物を仮構し、諸侯の苑囿から天子の苑囿へと論を進め、最後は倹約を説く風諫で結んだ。
- 子虚が烏有先生に語る形で、楚の雲夢沢での王の狩猟の壮大さ――方九百里に及ぶ山川・鉱物・草木・鳥獣の豊かさ、王の車馬・弓矢の勇壮、鄭女らの舞、船遊び、宴楽――を誇り、斉が及ばぬだろうと述べる。
- 烏有先生はこれに反論し、楚がかえって王の悪徳を誇示したことになると咎めつつ、斉の東は巨海に至り、雲夢のごとき沢を八九も呑むほどの広大さがあると誇る。
- 無是公はさらに両者をいましめ、諸侯が海を越えて猟をするのは礼に反すると述べたうえで、天子の上林苑の巨麗を語り出す。上林苑は蒼梧から西極に及び、丹水・紫淵・霸水・滻水・涇水・渭水など八つの川が流れ、蛟龍・魚鼈・珍禽・美石・香草が満ち、崇山巃嵷たる山々、離宮別館が谷を跨ぎ、四季を問わず珍果佳木が実り、禽獣が群れ遊ぶさまを長大に描写する。
- 天子は冬に上林苑で校猟し、貔豹・熊羆・野馬・玄鶴・鳳凰に至るまで様々な珍獣異鳥を追う壮麗な狩りの後、昊天の台で音楽を催し、巴俞・宋蔡の楽から《韶》《濩》《武》《象》、俳優・侏儒の芸に至るまで娯楽が尽くされ、青琴・宓妃のような佳人が侍る。
- 酒宴の盛りに天子は「あまりに奢侈にすぎる」と反省し、狩りをやめて有司に命じ、苑を開いて農地とし民に施し、貧窮を賑わし、徳号を発して刑罰を省き制度を改めるよう命じる。その後は吉日を選んで朝服を着け、《六芸》の園に遊び仁義の道を馳せるという理想の統治のあり方を語り、天下が徳化されれば刑を用いずして三皇五帝の功に並ぶとする。
- 対して、ひたすら狩猟に耽り民を顧みぬことを戒め、斉・楚の諸侯が国土の大半を苑囿とし民の食を奪うことの誤りを説いて締めくくる。
- 子虚・烏有先生の二人は恥じ入り、非礼を詫びる。賦が奏上されると武帝は相如を郎に任じた。太史公はこの賦につき、子虚・無是公の言が誇大に過ぎるとしつつも、その要は倹約を勧める風諫にあり、《詩》の風諫と異ならないと評した。
西南夷平定の使い
- 郎となって数年後、唐蒙が夜郎・西僰への道を通じるため巴蜀の吏卒千人余を発し、さらに輸送のため万余人を徴発し、渠帥を誅殺したため巴蜀の民が大いに驚き恐れた。
- 武帝は相如に唐蒙を責めさせ、あわせて檄文により巴蜀の民に、蛮夷討伐は天子の本意ではなく、南夷・西僰の首長らも進んで内属を望んでいることを説き、逃亡・自殺した者への罪の重さを説いて民心を鎮めるよう命じた。檄文は、匈奴・康居・閩越・南越がすでに帰服したこと、辺境の士が国難に身命を惜しまぬ忠義のあり方、それに反する巴蜀の逃亡者の恥を長文で説くものであった。
- 相如は復命したが、唐蒙はその後も西南夷への道を通そうと巴蜀・広漢の卒数万人を発し、二年かけても完成せず死者・費用が甚大であったため、蜀の民や漢の実務家の多くがこれを不便とした。
- 邛・筰の君長は南夷が漢と通じ多くの恩賞を得たと聞き、内臣となって漢の吏の設置を願った。武帝が相如に問うたところ、相如は邛・筰・冉・駹は蜀に近く道も通じやすく、秦代にも郡県であったと述べ、南夷より有利だと答えた。
- 武帝はこれを是とし、相如を中郎将に任じ節を建てて使いさせた。副使の王然于・壺充国・呂越人とともに巴蜀の吏や幣物をもって西夷に賜与し、蜀では太守以下が郊迎し、県令が弩を負って先駆するほどの栄誉となった。卓王孫らは娘の縁を喜び、財産を男子と等しく文君に分け与えた。
- 相如は西夷を平定し、邛・筰・冉・駹・斯榆の君主はみな内臣となることを願い、関を除いて西は沬水・若水、南は牂柯に及び、零関道を通じ孫水に橋をかけて邛都に通じさせた。武帝は大いに喜んだ。
「難蜀父老」
- 使者としての職務中、蜀の長老の多くが西南夷通交を無益とし大臣もこれに同調していたが、相如はすでに事業が始まっていたため諫めることができず、蜀の父老を仮構した問答体の文を著し、天子の意を諭す風諫とした。
- 文中、天子が漢の威徳により西征を命じ、冉・駹・筰・邛・斯榆を服させたことを述べたのち、二十七人の蜀の父老が「三郡の民を疲弊させ、西夷への通交を続けるのは無益ではないか」と使者を諫める。
- 使者はこれに答え、非常の人があって初めて非常の功業があると説き、禹が洪水を治めた例、賢君が天下を兼ね容れる大義を説き、《詩》の「普天の下、王土に非ざるは莫し」を引いて、夷狄の地にも仁政を及ぼすべきことを述べる。北の匈奴、南の越への遠征により四方の諸侯が帰服を願う様を語り、封禅の準備が整いつつあることを示唆して結ぶ。父老たちは感服し、自ら率先する意を述べた。
讒言と復職
- その後、相如が使いの際に賄賂を受けたと上書する者があり官を失ったが、一年余りで再び郎に召された。
遊猟諫言
- 相如は口ごもりがちだが著述に巧みで、消渇の病(糖尿病)を持病とした。卓氏との婚姻で富裕となり、公卿の国事には関わろうとせず病と称して閑居し官爵を求めなかった。
- 武帝に従って長楊で狩りをした際、武帝が自ら熊や猪を撃ち猛獣を追うことを好んだため、相如は上疏して諫めた。人にも獣にも能力の差があり、思わぬ猛獣に遭遇すれば万全の備えも用をなさぬと説き、天子が危険な地に近づくべきでないと述べ、「家に千金を累ねる者は堂の軒下に座らぬ」という諺を引いて自重を求めた。武帝はこれを善しとした。
「哀秦二世賦」
- 長楊からの帰路、宜春宮を過ぎた際に相如は賦を奏し、二世皇帝が身を持することを誤り国を滅ぼしたことを哀悼した。曲江のほとりを望み、山谷の荒涼を描きつつ、二世が讒言を信じて国を滅ぼし、その墓が荒れ果てて祭られぬことを嘆く内容であった。
孝文園令と「大人賦」
- 相如は孝文園令に任じられた。武帝が仙道を好むことを知り、「上林の賦もまだ美を尽くしていない、かつて『大人賦』を作りかけていた」として完成させ奏上した。相如は、世に伝わる仙人の姿は山沢に痩せこけて暮らす者とされるが、それは帝王の求める仙のあり方ではないとし、天子にふさわしい壮大な仙遊の賦を作った。
- 賦は、大人(天子)が俗世の狭さを厭い、雲気に乗じて彗星や虹を旗印とし、応龍・赤螭に駕して五帝を先導とし祝融らの神々を従え、堯・舜の旧跡を巡り、崑崙・三危を経て西王母のもとに至り、不老長生を得てもなお満足せず、さらに北方の玄闕・寒門を越えて虚無の境に至り、独り天地の外に超然と存在するさまを幻想的に描く。奏上されると武帝は大いに喜び、天地の間を遊ぶかのような浮遊の心地を得たという。
死と「封禅の書」
- 相如は病により官を退き茂陵で暮らした。武帝は「相如の病が重ければ、その著書をすべて取り寄せよ、さもなくば失われる」と命じたが、使者の所忠が着いたときにはすでに死去しており家に書はなかった。妻に問うと、長卿はもとより書を蓄えず、著すたびに人に取られ手元には残らないが、死の直前に「使者が書を求めて来たら奏上せよ」と一巻を遺していたという。それは封禅を勧める内容の書であった。
- その書は、上古より続く七十二君の盛衰を述べ、漢の徳が天地に満ちながらも符瑞を軽んじて封禅を行わずにいることを述べ、大司馬が符瑞の多さを挙げて封禅を勧める言葉を代弁し、最後に天子が「試みてみよう」と述べ頌(うた)を作らせる場面で結ばれる。頌は甘露・嘉穀・白い麒麟・黄龍などの瑞祥を詠み、天人相応の徳を讃えるものである。
- 相如の死後五年、武帝は初めて后土を祭り、八年後に泰山で封禅の礼を行い梁父山で禅を行った。
- 相如の他の著作である「遺平陵侯書」「与五公子相難」「草木書」などは採録せず、特に公卿の間で名高いものだけを採った。
史論
- 太史公は、《春秋》が微を推して隠を顕し、《易》が隠を本として顕に至り、《大雅》《小雅》がそれぞれ王侯・小己の得失を風諫することを述べ、相如の賦もまた多くの虚辞誇張を含みながら、その要旨は倹約への風諫にあり、《詩》の風諫と異ならないとした。楊雄が「靡麗の賦は百を勧めて一を風諫するに過ぎず、鄭衛の音を馳せてから雅を奏でるようなもので、効果に欠ける」と評したことにも触れつつ、太史公はその論ずべき言葉を採って本篇とした。