史記卷一百十二 列傳第五十二 主父偃

主父偃、斉臨菑の人。長らく不遇であったが元光元年に上書して武帝に見出され、推恩の令・茂陵徙民などの策で権勢をふるった。斉王を自殺に追い込んだ罪を問われ、元朔二年、族滅された。

年表(3件)

出自と遊学

  • 主父偃は斉の臨菑の人。長短縦横の術を学び、晩年『易』『春秋』百家の言を学んだ。斉の諸生に排斥されて受け入れられず、燕・趙・中山を遊説したが厚遇を得られず困窮した。
  • 孝武元光元年(前134年)、諸侯に見切りをつけて長安に入り衛将軍に見えたが召されず、資金も尽き賓客にも厭われた。ついに闕下に上書し、朝に奏して夕に召見された。上疏した九事のうち八事は律令、一事は匈奴討伐への諫言であった。

匈奴出兵諫言

  • 上疏で『司馬法』を引き「国が大でも戦を好めば亡び、天下泰平でも戦を忘れれば危うい」と説き、秦始皇帝が李斯の諫言(匈奴は城郭を持たず制しがたいとの説)を退け蒙恬に千里を切り取らせたが、不毛の地を守るため十余年兵を露し、天下が疲弊し秦に叛いた経緯を述べた。
  • また高皇帝が代谷で匈奴を撃とうとした際、御史成の諫めを聞かずに平城で包囲され、後に劉敬の和親策で干戈を収めた故事を引き、『周書』の「安危は号令に、存亡は用いる者にあり」を引用して熟慮を求めた。

徐楽の上書(土崩瓦解論)

  • 同時に趙人徐楽・斉人厳安も各一事を上書した。徐楽は「天下の患は土崩にあり瓦解にはない」と説き、陳渉が王侯の後裔でも富貴でもないのに民の困窮と主の無恤、俗の乱れと政の乱れに乗じて天下を動かした例(土崩)と、呉楚斉趙の七国が兵力を持ちながら先帝の恩沢が衰えぬうちは瓦解に過ぎず滅んだ例を対比し、関東の凶作と辺境の負担で民が不安定化していると警告、賢主は廟堂で未然に患を消すべきと説いた。武帝の遊興を戒めつつ、天然の聖徳をもって湯武・成康の治を復興できると励ました。

厳安の上書

  • 厳安は周の治世三百余年と衰退後の五伯、戦国の兵乱、秦の統一と急な刑罰・徴発による民の疲弊、陳勝呉広ら群雄の蜂起、秦の滅亡の経緯を述べ、南夷招撫・匈奴深入といった当代の拡張策は人臣の利であって天下の長策ではないと諫め、郡守の権力が戦国の六卿以上に膨張していることへの警戒を説いた。
  • 武帝は三人を召見し「なぜもっと早く会わなかったのか」と喜び、主父偃・徐楽・厳安を郎中に任じた。偃はしばしば上疏し、謁者から中大夫へと一年に四度昇進した。

推恩の策と茂陵徙民

  • 偃は「諸侯の封地が数十城・千里に及び、緩めれば驕奢淫乱、急げば連合して朝廷に逆らう」と説き、諸侯に子弟へ推恩分封を許すことで実質的に領国を分割弱体化させる策(推恩の令)を献じ、武帝はこれを採用した。
  • また茂陵造営に際し豪族・兼併の家や乱民を茂陵へ徙すことで、京師を実にし奸猾を除く「誅せずして害を除く」策も献じ、武帝は従った。

専横と最期

  • 衛皇后擁立や燕王定国の陰事摘発に功があり、大臣は偃の口を畏れて千金を賂った。「横暴すぎる」と忠告する者に偃は「四十余年の遊学が報われず、親族にも見捨てられた身。丈夫たるもの生きて五鼎食を得られねば死して五鼎に煮られるまで。日暮れて道遠し、ゆえに倒行暴施す」と答えた。
  • 朔方郡設置を強く主張し、公孫弘らの反対を退けて武帝に採用させた。
  • 元朔二年(前127年)、斉王の淫佚を告発して自ら斉の相となった偃は、昆弟・賓客に絶縁を言い渡し五百金を分け与えた。王と姉の姦事を追及し、王は燕王同様の死罪を恐れて自殺した。
  • 趙王はかねて偃の陰事(燕での不祥事)を恐れ、斉王自殺を機に偃が諸侯から金を受けていたと告発。武帝は偃が斉王を脅して自殺させたと激怒し下獄させた。偃は諸侯からの受金は認めたが脅迫は否定。公孫弘が「斉王には後継がなく国は郡となり、主父偃こそ首悪。誅さねば天下に申し訳が立たない」と進言し、偃は族滅された。
  • 偃が権勢を誇った時は賓客千を数えたが、族滅後に遺骸を収める者は洨の孔車ただ一人であった。武帝はこれを聞き孔車を長者と評した。

史論

  • 太史公曰く、公孫弘は行いは修まっていたが時運にも恵まれた。漢興八十余年、武帝が儒学を重んじ俊才を招く中で弘は首席に挙げられた。主父偃は権勢の絶頂では諸公が誉めそやしたが、名が敗れ身が誅されると士は争ってその悪を言い立てた。悲しむべきことだ、と結ぶ。

附記(太皇太后詔)

  • 太皇太后が大司徒・大司空に下した詔は、治国の道は富民に始まり、富民の要は節倹にあるとし、『孝経』を引きつつ、管仲は九合一匡の功があっても奢侈のゆえに孔子に礼を知らぬと評され、夏禹は宮室を卑しくしたと述べ、三公は百官の模範であるべきと説く。
  • その上で「漢興以来、股肱の宰臣で倹約実践において故丞相平津侯公孫弘に及ぶ者はいない」と特筆し、弘が布の衾・一菜の粗食を通し俸禄を賓客に分け与えて余財を残さなかったこと、汲黯の詰問で世に知られたこと、病による辞職を武帝が慰留し牛酒雑帛を賜ったこと、元狩二年に丞相のまま世を去ったことを改めて述べ、子の度が嗣いだのち山陽太守として法に坐し侯を失ったことにも触れる。最後に弘の子孫のうち順当な後継者に関内侯・食邑三百戸を賜い、みずから拝礼する旨を告げる。

附記(班固の評)

  • 班固は、公孫弘・卜式・児寛らはいずれも本来鴻鵠の翼を持ちながら燕雀の中に埋もれていた人材で、時運に恵まれねばこの位に至れなかったと評す。当時漢興六十余年、府庫は充実したが四夷はまだ服さず制度も未整備で、武帝は文武の人材を求めて枚生を蒲輪で迎え、主父偃を見て嘆息したという。
  • 卜式は牧畜から、弘羊は商賈から、衛青は奴僕から、日磾は降虜からそれぞれ抜擢されたと述べ、漢の人材登用がこの時期に最も盛んだったとし、儒雅では公孫弘・董仲舒・児寛、篤行では石建・石慶、質直では汲黯・卜式、推賢では韓安国・鄭当時、定令では趙禹・張湯、文章では司馬遷・相如、滑稽では東方朔・枚皋、応対では厳助・朱買臣、暦数では唐都・落下閎、協律では李延年、運籌では桑弘羊、奉使では張騫・蘇武、将帥では衛青・霍去病、受遺では霍光・金日磾を、それぞれの分野の代表として名を挙げ、その他の名臣は挙げきれないと述べる。
  • 続けて孝宣帝の代にも六蓺の講論と茂異の招選が行われ、蕭望之・梁丘賀・夏侯勝・韋玄成・厳彭祖・尹更始が儒術で、劉向・王襃が文章で名を顕し、将相には張安世・趙充国・魏相・邴吉・于定国・杜延年、治民には黄霸・王成・龔遂・鄭弘・邵信臣・韓延寿・尹翁帰・趙広漢らが功績を残したと結ぶ。