史記卷一百十二 列傳第五十二 公孫弘

公孫弘、斉の菑川国の人。若くして獄吏となるも罷免されて貧窮し、四十歳を過ぎて『春秋』を学び直した。倹約と処世の巧みさで武帝に重んじられ、丞相・平津侯に至った漢初の代表的な儒者宰相。元狩二年、在職のまま没した。

年表(4件)

出自と若年

  • 公孫弘は斉の菑川国薛県の人、字は季。若い頃薛の獄吏となったが罪を得て罷免され、家は貧しく海辺で豚を飼って暮らした。四十歳を過ぎてから『春秋』の学に励み、継母によく孝を尽くした。

賢良から博士へ

  • 建元元年(前140年)、武帝即位に伴い賢良文学の士を招いたとき、弘は六十歳で賢良として召され博士となった。匈奴への使いから帰って復命したが上意に添わず罷免帰郷した。
  • 元光五年(前130年)、再び菑川国から推薦され、弘は一旦辞退したが国人の強い推挙で応じ、太常での対策では百余人中最下位の評価だったが、武帝が奏を読み第一と評価し博士に任じた。
  • 西南夷への道を通すため郡を置いた際、巴蜀の民が苦しんでいるのを視察して復命し、事業の無用を強く説いたが武帝は聞き入れなかった。

倹約と処世術

  • 弘は博識で恢奇な人柄。人主は度量の狭さを、臣下は倹約の乏しさを憂うべきと常々説き、自らは布の衾を用い肉料理を重ねなかった。継母の喪は三年勤めた。
  • 朝議では自説を開陳しつつ最終判断は君主に委ね、面と向かって論争しなかった。武帝はその篤厚さと文法吏事への通暁、儒術による修飾を気に入り、二年で左内史に至った。
  • 汲黯と共に議した内容を、御前では上意に合わせて翻すため、汲黯に「斉人は詐りが多く誠実さがない」と面詰されたが、弘は「自分を知る者は忠と見るが、知らぬ者は不忠と見る」と応じ、武帝はこれを是とし、かえって厚遇した。

丞相と平津侯

  • 元朔三年(前126年)、張欧が免ぜられ弘が御史大夫となった。当時、西南夷を通じ東に滄海郡を、北に朔方郡を築く事業が進んでおり、弘はしばしば諫めて中国を疲弊させると論じたが、朱買臣らとの十策の論争にことごとく敗れ、西南夷・滄海の廃止と朔方専念を願い出て許された。
  • 汲黯に「三公でありながら布の衾を用いるのは偽りだ」と詰められた際、弘は管仲・晏嬰の故事を引き、自らの倹約は釣名の疑いを免れないとしつつ汲黯の忠を称えた。武帝はこれを謙譲と見て厚遇を増し、ついに弘を丞相とし平津侯に封じた。

人物の陰と晩年

  • 弘は内心猜疑深く、恨みを持つ者には表面上親しくしつつ陰でその禍を報じた。主父偃を殺し、董仲舒を膠西に左遷させたのも弘の力であった。一方で自らは一菜の粗食を続け、旧知の賓客には俸禄を分け与え家に余財を残さなかった。
  • 淮南・衡山の謀反を治める最中、弘は自らの無功にもかかわらず封爵と丞相位を得ながら諸侯の叛意を防げなかった責を負い、病を理由に侯印返上と辞職を上書したが、武帝は「賞功襃徳は易えぬ道であり、病は医薬で癒すべき」と慰留し、牛酒と雑帛を賜った。数か月で回復し政務に復した。
  • 元狩二年(前121年)、弘は病み、在職のまま丞相として世を去った。子の度が平津侯を嗣いだが、山陽太守として十余年後、法に坐して侯を失った。