史記卷一百十一 衛將軍驃騎列傳第五十一 霍去病
霍去病、衛青の姉の子。十八歳で初陣を飾り、驃騎将軍として河西・幕北への遠征で衛青を上回る大功をたてた若き将軍。渾邪王ら数万の投降を受け入れ河西の地を開いたが、元狩六年、若くして死去した。
初陣
- この年、大将軍の姉の子・霍去病は十八歳で天子の侍中となり、騎射に優れ、大将軍に従い剽姚校尉として八百の軽騎で大軍から数百里離れて戦果を挙げ、首虜二千二十八級、単于の大父にあたる籍若侯産を斬り季父の羅姑比を生け捕るなど二度冠軍の功を立て、千六百戸で冠軍侯に封じられた。上谷太守郝賢も四度大将軍に従い二千余の首虜を得て千百戸で衆利侯に封じられた。ただしこの年は両将軍の軍を失い趙信を降らせたため軍功は相殺され、大将軍の増封はなかった。蘇建は赦されて贖罪、庶人となった。
衛青――封賞の辞退と甯乗の進言、張騫の功
- 大将軍は帰還後、千金を賜った。当時王夫人が寵愛を受けており、甯乗が「将軍が万戸を食み三子が侯となったのは皇后のおかげに過ぎない、王夫人の一族はまだ富貴でない、賜った千金を王夫人の親に贈って寿ぐべき」と進言、大将軍は五百金を贈った。天子はこれを知り甯乗を東海都尉に任じた。
- 張騫は大将軍に従い、かつて大夏に使いした経験で匈奴の地の水草を知り軍を導いたため、絶国への功と併せ博望侯に封じられた。
驃騎将軍としての初陣
- 冠軍侯となって三年後の元狩二年春、霍去病は驃騎将軍として一万騎で隴西から出撃し功を立てた。烏盭を越え遬濮を討ち狐奴を渡り五王国を経て、輜重や恐れをなした者は取らず単于の子の捕獲を期し、六日間転戦して焉支山を越え千余里、折蘭王を殺し盧胡王を斬り渾邪王の子・相国・都尉を生け捕り、首虜八千余級、休屠王の祭天金人を得て、二千戸を増封された。
- その夏、驃騎将軍は合騎侯公孫敖と別道で北地から、博望侯張騫・郎中令李広は右北平から別道で出撃した。李広の四千騎が先着し匈奴左賢王の数万騎に包囲され死者過半、博望侯の到着で匈奴は退いた(博望侯は遅参の罪で贖罪、庶人となる)。驃騎将軍は北地から深く進み合騎侯とは道を違えて合流できぬまま単独で居延を越え祁連山を攻め、酋涂王ほか降伏した二千五百人、首虜三万二百級、王五人・その母、単于の閼氏、王子五十九人、相国・将軍・当戸・都尉六十三人を得た。天子は五千戸を増封、従軍の校尉に爵位を与え、鷹撃司馬趙破奴・校尉高不識・校尉僕多らもそれぞれ功により従驃侯・宜冠侯・煇渠侯に封じられた(合騎侯公孫敖は遅参の罪で贖罪し庶人となった)。驃騎将軍の軍は常に精選され深入りを敢えてし天佑にも恵まれ困窮したことがなく、老練な将軍たちはしばしば遅参で機を逸した。これにより驃騎将軍は日々親愛を増し、大将軍に匹敵する存在となった。
渾邪王の投降
- その秋、単于は渾邪王が西方でたびたび漢に破れ数万を失ったことに怒り誅殺しようとした。渾邪王・休屠王は漢への投降を図り先んじて連絡、大行李息がこれを知り天子に急報した。天子は詐降による奇襲を恐れ驃騎将軍に迎撃・受降を命じた。渡河後、渾邪王配下の裨将の中に降伏を望まぬ者が逃亡しようとしたため、驃騎将軍は自ら渾邪王の陣に入り逃亡を図った者八千人を斬り、渾邪王を先に長安へ送り、残る衆数万(号して十万)を渡河させた。長安到着後、天子の賞賜は数十巨万に及び、渾邪王は一万戸で漯陰侯、裨王呼毒尼は下摩侯、鷹庇は煇渠侯、禽犁は河綦侯、大当戸銅離は常楽侯に封じられた。天子は詔でこの功(誅獟駻・首虜八千余級・異国の王三十二人の降伏を得、戦士に死傷少なく十万の衆を懐柔した)を讃え、千七百戸を増封、隴西・北地・上郡の戍卒を半減して天下の労役を寛めた。
- のち降伏者は五郡の故塞外・河南の地に分置され属国とされた。翌年、匈奴が右北平・定襄を侵し千余人を殺略した。
元狩四年――衛青・霍去病の幕北大遠征
- 翌年(元狩四年)、天子は「翕侯趙信が単于のために漢兵は幕を越えられぬと軽んじる策を立てているが、今大軍を発すれば必ず志を遂げよう」と諸将と議した。
- 春、天子は大将軍青・驃騎将軍去病にそれぞれ五万騎、輸送の歩兵数十万を付け、敢闘の士は皆驃騎将軍に配した。当初驃騎将軍が定襄から単于に当たる予定であったが、捕虜の証言で単于が東にいるとわかり、驃騎将軍を代郡、大将軍を定襄から出させた。郎中令李広を前将軍、公孫賀を左将軍、趙食其を右将軍、平陽侯曹襄を後将軍とし、いずれも大将軍に属させた。漢兵五万騎が幕を越え、驃騎将軍の軍とともに単于を撃つこととなった。趙信は単于に「漢兵が幕を越えれば人馬とも疲弊する、坐して虜にできる」と進言、単于は輜重を遠く退け精兵を幕北に配した。
- 大将軍が塞を出て千余里、単于の陣に遭遇、武剛車で環営を築き五千騎で当たらせ、匈奴も一万騎で応戦、日没に大風が起こり視界が利かぬ中で漢は左右両翼で単于を包囲、単于は漢兵の多さと自軍の不利を見て、薄暮に六頭の駱駝と数百の壮騎で漢の囲みを突破し西北へ逃走した。両軍は乱戦となり多くの死傷者を出した。捕虜の証言で単于が昏れる前に逃げたと知り、漢軍は軽騎で夜を徹して追撃、大軍もこれに続いたが、二百余里進んでも単于を捕らえられず、首虜一万余級を得て闐顔山の趙信城に至り、蓄えられた匈奴の食料を得て一日留まり、余った食料と城を焼いて帰還した。
- この時、前将軍李広・右将軍趙食其の別働隊は東道から進み道に迷い遅参、大将軍が幕南で合流した後、事情を報告させようと長史を通じて李広を問責、李広は自殺した。右将軍は下吏に問われ贖罪して庶人となった。大将軍の軍全体で首虜一万九千級を得た。単于が十余日行方不明であった間、右谷蠡王が自立して単于を名乗ったが、単于が戻ると王号を返上した。
- 驃騎将軍も五万騎(輜重は大将軍軍と同等だが裨将はなく李敢らを大校として裨将に代えた)を率い、代・右北平から千余里、左方の兵に直進し、大将軍を上回る斬獲の功を挙げた。天子は詔で(葷粥の兵を率い軽装で大幕を渡り章渠を捕らえ比車耆を誅し左大将を転戦で撃ち、旗鼓を斬獲し離侯を経て弓閭を渡り、屯頭王・韓王ら三人と将軍・相国・当戸・都尉八十三人を得たこと、狼居胥山で封じ姑衍山で禅じ翰海に臨んだこと、鹵獲の首級七万四百四十三に及んだこと)を讃え、五千八百戸を増封した。右北平太守路博德・北地都尉邢山・帰義の因淳王復陸支・楼専王伊即靬・従驃侯破奴・昌武侯安稽らもそれぞれ功により符離侯・義陽侯・壮侯・衆利侯などに封じられ、増封を受けた。校尉李敢は旗鼓を得た功で関内侯(食邑二百戸)となり、校尉自為は大庶長の爵を得た。軍吏卒への恩賞も多かったが、大将軍は増封されず、軍吏卒にも封侯された者はなかった。
- 両軍の出塞時の官馬・私馬は合わせて十四万匹あったが、帰還時は三万匹に満たなかった。この功で大司馬の位が置かれ、大将軍・驃騎将軍が共にこれに任じられ、令によって驃騎将軍の秩禄は大将軍と同等とされた。以後、大将軍青は次第に勢いを失い、驃騎将軍はいよいよ貴顕を極め、大将軍の故人門下も驃騎将軍のもとへ移って官爵を得る者が多かったが、任安だけは動かなかった。
衛青・霍去病――その後と両家の盛衰
- 驃騎将軍は寡黙で気概があり、天子が孫呉の兵法を教えようとすると「方略さえあれば古の兵法を学ぶまでもない」と答え、邸宅を賜ろうとすると「匈奴未だ滅びず、家を為すいとまなし」と答えた。天子はいよいよこれを重んじたが、若くして貴顕にあり士卒への配慮を欠き、遠征中も天子の贈った食糧の余りを廃棄する一方、飢えた士卒がいたと言われる。塞外で兵糧が乏しくとも、驃騎将軍はなお蹴鞠に興じたという。対して大将軍は仁愛謙譲で上に和柔であったが、天下の称賛は驃騎将軍ほどではなかった。
- 驃騎将軍は元狩四年の遠征の三年後、元狩六年に死去した。天子は哀悼し属国の玄甲軍を長安から茂陵まで並べ、祁連山を象った墓を築かせ、武功と広地を併せ景桓侯と諡した。子の霍嬗(字は子侯)が嗣いだが、天子に愛されながらも六年後の元封元年に早世し、哀侯と諡され、後継なく国は除かれた。
- 驃騎将軍の死後、大将軍の長子・宜春侯伉は坐法で侯を失い、五年後に弟の陰安侯不疑・発干侯登も酎金の罪で侯を失った。さらに二年後、冠軍侯の国も除かれ、四年後、大将軍衛青が死に烈侯と諡され、子の伉が長平侯を嗣いだ(大将軍は平陽長公主に娶られていたため嗣ぐことができた)が、六年後にまた坐法で侯を失った。
- 大将軍が単于を囲んでから十四年、漢が匈奴を撃たなかったのは馬が少なくなり、南の両越・東の朝鮮、羌・西南夷との戦に力を割いたためであった。
左方の諸将――履歴列記
- 衛青は凡そ七度匈奴を撃ち、首虜五万余級。一度単于と交戦し河南地を得て朔方郡を置き、二度増封され合わせて一万一千八百戸、三子の封と併せ一万五千七百戸に至った。従った校尉・裨将で侯となった者九人、将軍となった者十四人(うち李広は別伝あり)。無伝の者は次の通り。
- 公孫賀は義渠の人でその祖先は胡種。父の渾邪は景帝の代に平曲侯となったが坐法で失った。賀は武帝が太子であった頃の舎人。武帝即位八年目に太僕として輕車将軍となり馬邑に出兵、四年後に輕車将軍として雲中から出撃、五年後には騎将軍として大将軍に従い功を立て南窌侯に封じられた。一年後、左将軍として再び定襄から出撃したが功なく、四年後に酎金の罪で侯を失い、八年後に浮沮将軍として五原から二千余里出撃したが功なく、さらに八年後、太僕から丞相となり葛繹侯に封じられた。賀は七度将軍となり匈奴戦に大功はなかったが二度侯となり丞相にまで至った。子の敬声が陽石公主と姦通し巫蠱の罪に問われた事件で一族は滅ぼされ、後継はなかった。
- 李息は郁郅の人。景帝に仕え、武帝即位八年目に材官将軍として馬邑に出兵、六年後に将軍として代から、三年後に将軍として大将軍に従い朔方から出撃したがいずれも功なし。凡そ三度将軍となり、その後は常に大行の職にあった。
- 公孫敖は義渠の人。郎として武帝に仕え、即位十二年目に騎将軍として代から出撃し七千の兵を失い贖罪して庶人となった。五年後に校尉として大将軍に従い功を立て合騎侯となったが、一年後に中将軍として再び定襄から出撃し功なく、二年後に将軍として北地から出撃した際驃騎将軍との合流に遅れ贖罪して庶人となった。さらに二年後、校尉として大将軍に従うも功なく、十四年後に因杅将軍として受降城を築き、七年後にも因杅将軍として余吾まで出撃したが多くの兵を失い下吏に問われ、詐って死を装い五六年民間に潜んだが発覚し再び繋がれた。妻の巫蠱の罪で族滅された。凡そ四度将軍となり匈奴を撃ち、一度侯となった。
- 李沮は雲中の人。景帝に仕え、武帝即位十七年目に左内史から彊弩将軍となり、一年後に再び彊弩将軍となった。
- 李蔡は成紀の人。文帝・景帝・武帝に仕えた。輕車将軍として大将軍に従い功を立て楽安侯に封じられ、丞相となったが坐法で死んだ。
- 張次公は河東の人。校尉として衛青に従い功を立て岸頭侯に封じられた。太后崩御の際は北軍の将軍を務め、翌年再び大将軍に従うも坐法で侯を失った。父の隆は輕車武射の士として景帝に近侍した。
- 蘇建は杜陵の人。校尉として衛青に従い功を立て平陵侯となり、将軍として朔方城を築いた。四年後に游撃将軍として大将軍に従い朔方から出撃、翌年には右将軍として定襄から出撃したが翕侯(趙信)の投降と軍の喪失で贖罪して庶人となった。その後代郡太守として死に、墓は大猶郷にある。
- 趙信は匈奴の相国として漢に降り翕侯となったが、武帝即位十七年目に前将軍として単于と戦い敗れ再び匈奴に降った。
- 張騫は大夏に使いした功で校尉となり、大将軍に従う功で博望侯に封じられたが、三年後に将軍として右北平から出撃した際に遅参し贖罪して庶人となった。のち烏孫との通交に尽力し大行として死に、墓は漢中にある。
- 趙食其は祋祤(たいく)の人。武帝即位二十二年目に主爵から右将軍となり大将軍に従い定襄から出撃したが道に迷い贖罪して庶人となった。
- 曹襄は平陽侯として後将軍となり大将軍に従い定襄から出撃した。曹参の孫にあたる。
- 韓説は弓高侯の庶孫。校尉として大将軍に従い功を立て龍頟侯となったが酎金の罪で失い、元鼎六年に待詔から橫海将軍となり東越討伐の功で按道侯となった。太初三年に游撃将軍として五原の外城に屯し、後に光祿勳として戻太子の乱で蠱を掘り出した際に太子に殺された。
- 郭昌は雲中の人。校尉として大将軍に従い、元封四年に太中大夫から拔胡将軍となり朔方に屯した。昆明討伐では功なく印を奪われた。
- 荀彘は太原広武の人。御者として仕え侍中・校尉となり、しばしば大将軍に従った。元封三年、左将軍として朝鮮を撃ったが功なく、樓船将軍を捕らえた罪で法に問われ死んだ。
霍去病配下の諸将――履歴列記
- 霍去病は凡そ六度匈奴を撃ち、うち四度将軍として首虜十一万余級。渾邪王の数万の投降を得て河西・酒泉の地を開き、西方の胡寇を減らした。四度増封し合わせて一万五千百戸。校吏で侯となった者は六人、後に将軍となった者は二人。
- 路博德は平州の人。右北平太守として驃騎将軍に従い功を立て符離侯となった。驃騎将軍の死後、衛尉から伏波将軍となり南越を討伐して功を立て増封されたが、後に坐法で侯を失った。彊弩都尉として居延に屯し没した。
- 趙破奴はもと九原の人。かつて匈奴に亡命したが後に漢に帰り驃騎将軍の司馬となった。北地出撃の功で従驃侯に封じられたが酎金の罪で失い、一年後に匈河将軍として匈奴河水まで攻めたが功なく、二年後に樓蘭王を撃つ功で浞野侯に再封された。六年後、浚稽将軍として二万騎で匈奴左賢王を撃ったが八万の兵に包囲され捕らえられ、十年匈奴に留まった後に太子安国とともに漢に亡命したが、後に巫蠱の罪で族滅された。
衛氏の興亡
- 衛氏の興隆は大将軍青の初封に始まり、その後一族から侯となった者は合わせて五人に及んだが、二十四年のうちに五侯すべてが奪われ、衛氏に侯たる者はいなくなった。
史論
- 太史公は言う。蘇建がかつて私に語った、「私は大将軍が至って尊く重んじられながら天下の賢大夫から称賛の声がないことを責め、古の名将のように賢者を招いて用いるよう勧めたことがある。すると大将軍は『魏其侯・武安侯が賓客を厚遇したことに天子は常に切歯していた。士大夫に親しみ賢を招き不肖を退けるのは人主の権柄であり、人臣はただ法を奉じ職を尽くせばよい、なぜ士を招く必要があろうか』と答えた」という。驃騎将軍もこの考えに倣い、将としての振る舞いはこのようであった。