史記卷一百七 魏其武安侯列傳第四十七 灌夫

灌夫、潁陰の人。呉楚の乱で父の仇討ちのため敵陣へ突入し名を挙げた武将。剛直で任侠を好み竇嬰と親密に交わったが、田蚡との婚宴での無礼を機に一族もろとも捕らえられ、元光五年、処刑された。

年表(2件)
  • 元光四年潁川での横暴を田蚡に上奏され、婚礼の宴での無礼を機に一族もろとも捕らえられた
  • 元光五年十月一族もろとも処断された

出自と武勇

  • 灌夫は潁陰の人。父張孟はもと潁陰侯嬰の舎人で、灌氏の姓を冒した。呉楚の乱で潁陰侯灌何に従い、父灌孟は校尉となったが老いて奮戦し戦死。軍法では父子ともに従軍し死者が出れば喪に帰れるが、灌夫は帰らず、「呉王か将軍の首を得て父の仇を報いたい」と甲を着て少数の壮士と共に敵陣に突入、数十人を殺傷したが独り帰還、身に大創十余を負いながら奇跡的に生き延びた。傷が癒えると再び出撃を願い出たが、太尉に止められた。この功で灌夫の名は天下に知られた。

気性と交遊

  • 灌夫は中郎将、代相、淮陽太守、太僕を歴任するが、竇太后の弟・竇甫を酒席で殴打した罪で燕相に左遷、その後坐法で免官し長安に家居した。
  • 灌夫は剛直で酒に任せ、諂いを好まず、身分の高い者には無礼を敢えてし、貧賤の士には敬意を払い交わった。文学は好まず任侠を好み、家財数千万、食客は日に数十百人。宗族賓客は潁川で権勢を振るい、「潁水清まば灌氏安く、潁水濁らば灌氏族滅す」と歌われるほどであった。
  • 家勢は衰えても、竇嬰・灌夫は互いに引き立て合い、父子のように親密に交わった。

竇嬰・田蚡・灌夫――婚宴での対立

  • 灌夫が喪中に丞相田蚡を訪ねた際、田蚡が魏其侯を訪ねる約束をしながら反故にし、灌夫が怒って迎えに行く一幕があった。
  • 田蚡が竇嬰の城南の田を求めた際、竇嬰はこれを拒み、灌夫が籍福を罵った。田蚡は「竇嬰の子が人を殺した時に自分が助命したのに」と激怒し、以後竇嬰・灌夫を深く怨むようになった。
  • 元光四年春、田蚡は灌夫の潁川での横暴を上奏し捕縛を求めたが、灌夫も田蚡の陰事(淮南王からの受金など)を握っており、双方賓客の仲裁で一旦収まった。
  • その夏、田蚡が燕王の女を娶る婚礼の宴で、灌夫は田蚡に対する礼が薄いことに怒り、臨汝侯を罵倒するに至った。田蚡は「これは自分が灌夫を驕らせた罪」と怒って灌夫を捕らえ、「宗室を罵った不敬」として繋獄。さらに灌氏一族を追捕し、多くが棄市の罪を得た。魏其侯は救おうとしたが果たせなかった。

竇嬰――灌夫救援の上書と東朝廷弁

  • 竇嬰は「自分が得たものは自分が捨ててよいが、灌夫を独り死なせられぬ」と家人の諫めを退け、密かに上書して灌夫の罪の軽微さを訴えた。帝はこれを認め、東朝(太后の宮)で公卿に是非を弁論させることとした。
  • 東朝の廷弁で竇嬰は灌夫の善を説き、田蚡はその横暴を説いた。御史大夫韓安国は両者に理があるとし、主爵都尉汲黯は竇嬰を支持、内史鄭当時も初め竇嬰を支持したが後に対応を渋り、他は誰も明言しなかった。帝は内史を叱責した。
  • 事後、太后は「自分の在世中から弟が軽んじられるなら、死後はどうなるか」と怒り食を絶ち、帝は謝罪し「ゆえに廷議とした」と述べた。田蚡は退朝後、韓安国を「なぜ両端を持すのか」と責めたが、韓安国から「魏其を毀れば身の潔白を示せた」と諭され謝罪した。

竇嬰――矯詔の疑いと処刑

  • 帝は御史に竇嬰の証言を調べさせたところ食い違いが多く、都司空に繋がれた。竇嬰はかつて孝景帝から「不便あれば便宜をもって上奏せよ」との遺詔を受けていたが、尚書に照会すると遺詔の記録がなく、詔書は竇嬰の家にのみ保管され家丞の封のみがあった。これにより竇嬰は先帝の詔を偽ったとして棄市の罪に問われた。
  • 元光五年十月、灌夫とその一族はことごとく処断された。竇嬰は病んで食を絶ったが、帝に殺す意図なしと聞いて回復、助命の議も定まりかけたところ、悪意の流言が上聞し、十二月晦、竇嬰は渭城で棄市された。

田蚡――発狂と死、淮南王事件

  • 翌春、田蚡は病み、しきりに罪を謝する声を発した。巫が見るに魏其侯・灌夫の霊が共に守って殺そうとしているとされ、ついに死んだ。子の田恬が嗣ぐ。元朔三年、武安侯田恬は襜褕を着て宮中に入った不敬の罪に問われた。
  • 淮南王劉安の謀反が発覚し取り調べる中、かつて田蚡が太尉として淮南王を霸上に迎えた際「上に太子なく大王が高祖の孫として最も賢い、もし上が崩ずれば大王でなくて誰が立つか」と語り、淮南王が大いに喜んで金財物を厚く贈った事実が判明した。帝は「もし武安侯が生きていれば一族を誅していた」と述べた。

史論

  • 太史公は言う。魏其・武安はともに外戚として重んじられ、灌夫は一時の決断で名を顕した。魏其の登用は呉楚の乱により、武安の貴顕は帝の即位の時運によった。しかし魏其は時勢を弁えず、灌夫は術策なく不遜であり、二人が互いに支え合ったことがかえって禍乱を成した。武安は貴を恃んで権を好み、杯酒の恨みから二人の賢者を陥れた。ああ哀しいかな。人を怨んで身を滅ぼし、命も長くはなかった。人々の支持を得られず、ついに悪評を被った。ああ哀しいかな、禍の由来はここにある。