衛綰(建陵侯)
- 衛綰は代の大陵の人。戯車(曲芸的な車術)の技で郎となり文帝に仕え、功により中郎将に至った。醇謹で他に取り柄なし。景帝が太子だった頃招かれても病と称して赴かず、文帝は崩御の際「綰は長者、厚く遇せよ」と景帝に託した。景帝は即位後一年余り咎めず、綰はますます謹慎した。
- 上林への行幸で参乗を命じられた理由を問われても「功次による昇進で自らは知らない」と答え、太子時代の不参の理由も「実際に病でした」と答え、賜った剣も「先帝から賜った剣六振りはすべて未使用のまま保管している」と示した。郎官の過失は自ら被り功は他に譲ったため、天子は廉直と認め、河間王太傅とした。呉楚の乱では河間の兵を率いて功をあげ中尉となり、景帝前六年に建陵侯に封じられた。
- 翌年、上が太子を廃し栗卿一族を誅した際、綰は長者として捕縛の任を免れ、後に膠東王が太子に立つと太子太傅、後に御史大夫、五年後に桃侯舎に代わり丞相となった。特に功績はないが天子に敦厚と評され厚遇された。丞相三年で景帝が崩じ武帝が即位、建元年間、景帝の病時に囚人の処理を誤ったとして免官された。その後綰は卒し、子の信が継いだが酎金の罪で失侯した。