出自と文帝との問答
- 馮唐は祖父が趙の人、父は代に移り、漢の興隆後は安陵に移った。孝行で知られ、中郎署長として文帝に仕えた。文帝の輦が通りかかった際、廉頗・李牧の将としての優劣を問われ、馮唐は「今の将は廉頗・李牧に及ばない」と答え、文帝を怒らせたが、後日謝罪した。
馮唐の諫言――魏尚の赦免
- 匈奴が北地都尉卬を殺した頃、文帝は再び馮唐に問うた。馮唐は、昔の王が将軍を派遣する際に閫(門の内外)の権限を委ねた故事、李牧が趙将として軍市の租税を自ら士卒に用い、賞罰を専断できたために選車千三百乗・彀騎万三千・百金の士十万を得て北の単于を逐い東胡を破り澹林を滅ぼした大功の話を引き、雲中守魏尚が軍功の首級報告がわずかに六級不足しただけで爵を削られ罰せられたことを挙げ、「陛下は法が明確すぎ、賞が軽く罰が重いため、廉頗・李牧を得ても用いることができない」と諫めた。文帝は喜び、その日のうちに魏尚を赦して雲中守に復し、馮唐を車騎都尉に任じた。
晩年
- 景帝七年、馮唐は楚相となったが免官。武帝の代に賢良として推挙された時は既に九十余歳で出仕できず、子の馮遂(字は王孫)が郎となった。馮遂も奇士として知られ、太史公と親交があった。
史論
- 太史公は言う。張季(釈之)の「長者」評は法を守り意に阿らぬところにあり、馮公の将論は味わい深い。「その人を知らずばその友を見よ」という語のとおり、二人の称賛する人物は廟堂に立つに値する。『書経』の「偏らず党せねば王道は広く平らかである」の言葉は、まさに張季・馮公にふさわしい。