史記卷百一 列傳第四十一 鼂錯

要約

鼂錯は潁川の人で刑名の学を修め、太常掌故から伏生に『尚書』を学び、太子家令となって「智嚢」と呼ばれた。たびたび諸侯を削るべしと上書したが文帝には用いられず、中大夫に昇進するにとどまった。袁盎ら大功臣は彼を好まなかった。

景帝の代に内史となると寵愛は九卿を圧倒し、法令の多くを改めた。丞相申屠嘉は内史府が太上皇廟の垣を穿って門を開いたことを咎めて誅殺を奏上したが退けられ、憤死した。御史大夫に昇進すると諸侯の罪を糾弾して地を削ることを求め、竇嬰だけがこれに反対して隙を生じた。法令三十章を改定し、諸侯はみな鼂錯を憎んだ。

父は潁川から来て骨肉を疎んじさせていると諫めたが、錯は宗廟のためだと答えた。父は「劉氏は安泰でも鼂氏は危うい」と言い残して毒を仰ぎ死んだ。十余日後、呉楚七国が案の定謀反し鼂錯誅殺を名目としたため、竇嬰・袁盎の進言により景帝は鼂錯を朝服のまま東市で斬らせた。

鄧公は軍から戻って上書し、呉楚の謀反は鼂錯を誅しても止まらず、忠臣の口を塞ぎ諸侯に仇を討ってやる結果になったと述べ、景帝は悔いを口にした。太史公は、権力を専らにして多くを改め、私怨に報いようとしてかえって自らを滅ぼしたと評し、「古を変え常を乱せば死ななければ滅ぶ」とはまさにこのことだとした。

現代語訳全文

出自と学問

  • 鼂錯は、潁川の人である。軹の張恢先のもとで申不害・商鞅の刑名の学を学び、雒陽の宋孟および劉礼と同門であった。文学(学問)によって太常掌故(太常府の属官)となった。

文帝への上書

  • 錯は人となり厳しく直情で酷薄であった。孝文帝の時、天下に『尚書』を治める者がおらず、ただ済南の伏生だけが、もとの秦の博士で『尚書』を治めていると聞いたが、年齢は九十余りで、老いて召すことができなかった、そこで太常に詔して人を遣わし彼のもとで学ばせた。
  • 太常は錯を遣わし伏生のもとで『尚書』を学ばせた。戻ると、そのついでに時宜にかなう事を上奏し、『書経』を引いて論説した。詔により太子舎人・門大夫・家令に任じられた。その弁舌によって太子の寵愛を得、太子の家では彼を「智嚢(知恵の袋)」と呼んだ。
  • 孝文の時にたびたび上書し、諸侯を削ることや、法令で改定すべき事について述べた。上書は数十回に及んだが、孝文はこれを聞き入れなかったが、その才能を奇才と認め、中大夫に昇進させた。この時、太子は錯の計略を良しとしたが、袁盎ら多くの大功臣たちは錯を好まなかった。

申屠嘉との確執

  • 景帝が即位すると、錯を内史とした。錯は常にたびたび人払いを願って事を言上し、そのたびに聞き入れられ、その寵愛は九卿を圧倒し、法令の多くが改定された。丞相の申屠嘉は内心これを快く思わなかったが、これを咎める力がなかった。
  • 内史府は太上皇廟の外壁の中にあり、門が東に開いていて、不便だったので、錯はそこで別に二つの門を穿ち南に開かせ、廟の垣を掘り穿った。丞相の嘉はこれを聞き、大いに怒り、これによってこの過ちを理由に錯を誅することを奏上して願い出ようとした。錯はこれを聞き、すぐに夜に人払いを願い出て、詳しく上にこれを告げた。
  • 丞相が事を奏上する際、そのついでに錯がほしいままに廟の垣を穿って門としたことを言い、廷尉に下して誅することを願い出た。上は言った、「これは廟の垣ではなく、外壁の中の垣にすぎない、法に触れるものではない」と。丞相は謝った。
  • 朝議が終わると、怒って長史に言った、「私は先に斬ってから知らせるべきであったのに、先に(皇帝に)願い出てしまい、この小僧に出し抜かれてしまった、まことに誤りであった」と。丞相はそのまま病を発して死んだ。錯はこれによってますます貴くなった。

削藩策

  • 御史大夫に昇進し、諸侯の罪過を糾弾し、その地を削り、その属郡を没収することを求めた。上奏すると、上は公卿・列侯・宗室を集めて議論させたが、誰もあえて異議を唱えなかった、ただ竇嬰だけがこれを争い、これにより錯との間に隙が生じた。
  • 錯が改定した法令は三十章に及び、諸侯はみな騒ぎ立て鼂錯を憎んだ。錯の父はこれを聞き、潁川から来て、錯に言った、「上が即位して間もなく、お前は政治を執り行い、諸侯を侵し削り、人の骨肉の縁を疎んじさせている、人々の口の議論の多くがお前を恨んでいる、なぜだ」と。
  • 鼂錯は言った、「もとよりそうです。このようにしなければ、天子の威は尊ばれず、宗廟は安泰になりません」と。錯の父は言った、「劉氏は安泰になるだろうが、鼂氏(我が一族)は危うくなるだろう、私はお前のもとを去って帰ろう」と。そのまま毒薬を飲んで死に、言った、「私は禍いが我が身に及ぶのを見るに忍びない」と。
  • 死んで十余日後、呉楚七国が案の定謀反し、鼂錯を誅することを名目とした。竇嬰・袁盎が進言するに及んで、上は鼂錯に朝服を着せたまま東市で斬らせた。

鄧公の弁護

  • 鼂錯がすでに死ぬと、謁者僕射の鄧公は校尉として、呉楚の軍を撃つ将となった。戻ってくると、軍事について上書し、上に謁見した。上は問うて言った、「軍中から来る道すがら、鼂錯が死んだと聞いたであろうが、呉楚は兵をやめたか」と。
  • 鄧公は言った、「呉王が謀反しようとしてから数十年になります、(今回の削地への)怒りを発して地を削られたことに対し、鼂錯を誅することを名目としましたが、その本心は錯にあるわけではありません。しかも臣が恐れますのは、天下の士が口を閉ざし、二度と(諫言を)言わなくなることです」と。
  • 上は言った、「なぜか」と。鄧公は言った、「そもそも鼂錯は諸侯が強大になって制御できなくなることを憂え、それゆえ地を削って京師を尊ぶことを願い出ました、これは万世の利益です。計画がようやく始まったばかりで、たちまち大きな殺戮を受けることになりました、内には忠臣の口を塞ぎ、外には諸侯のために仇を討ってやったことになります、臣はひそかに陛下のためにこれは取るべきでない措置だったと考えます」と。
  • そこで景帝は長い間黙り込み、言った、「あなたの言葉はもっともだ、私もこれを悔いている」と。そこで鄧公を城陽中尉に拝命した。

鄧公の経歴

  • 鄧公は、成固の人であり、奇抜な計略に富んでいた。建元年間、上(武帝)が賢良の士を招いたとき、公卿は鄧公を推薦し、この時鄧公は官を免ぜられていたが、家から起用されて九卿となった。一年経ち、再び病と称して官を辞して帰った。その子の章は黄老の説を修めることで諸公の間で名を知られた。

史論

  • 太史公は言う。袁盎は学問を好まなかったが、それでも人の心をとらえることに巧みで、仁愛の心を本質とし、義を引いて激しく志を述べた。孝文帝が即位したばかりの時に出会い、その資質がちょうど時代に合致した。時代が変わるにつれて、呉楚の一件で(進言を)説くに及んでは、その説は行われたとはいえ、その後は思うようにはいかなかった。名声を好み賢を誇ったことで、結局その名声によって身を滅ぼした。
  • 鼂錯は家令であった時、たびたび事を言上したが用いられなかった。後に権力を専らにするようになると、多くのことを変更した。諸侯が事を起こすと、急いでこれを匡し救うことをせず、私怨に報いようとして、かえって自らの身を滅ぼした。ことわざに「古を変え常を乱せば、死ななければ滅ぶ」という、なんと錯らのことを言うのであろうか。