史記卷百 列傳第四十 欒布

要約

欒布は梁の人。まだ庶民だった彭越と交遊があったが、身をさらわれて燕で奴隷となり、燕将臧荼に見出されて都尉となった。臧荼謀反で捕虜となると彭越が上に願い出て贖い出し梁の大夫とした。欒布が斉に使者として赴いている間に彭越は謀反の罪で誅され三族を滅ぼされ、その首が晒されて「収容し見る者は捕らえよ」と詔が出された。

戻った欒布は禁を犯して首に事を報告し祀って哭泣したため捕らえられ、高祖に「彭越と共に謀反したのか」と煮殺しを命じられた。刑に臨んで欒布は「彭王が梁の地にあって漢に与したからこそ項羽は西進できず、垓下の勝利も彭王あってこそだったのに、病で従軍できなかっただけで謀反の証もなく誅されては功臣たちが皆身を危うく思う、私は生きるより死んで彭王に殉じたい」と述べ、高祖はその罪を許し都尉に取り立てた。

孝文の時、燕の相から将軍に至り、「窮しても志を屈しないのが人、富貴で意にかなわぬのを恥じぬのが賢者だ」と称し、恩には厚く報い、恨みには法をもって報いた。呉楚の乱の軍功で兪侯に封じられ再び燕の相となり、燕・斉の人々は欒公社を立てて彼を祀った。景帝中五年に死に、子の賁は祭祀不備の罪で国を除かれた。太史公は、欒布が彭越を哭き煮え湯に向かうことを恐れなかったのは、死を軽んじなかったからだと評した。

年表

欒布は梁の人。若くして彭越と交遊し、燕で捕虜となり奴隷を経て彭越に贖われ梁の大夫となった。彭越が謀反の罪で誅殺され梟首されると、禁を犯してその首を祀って哭泣し、煮え湯の刑に処されかけたが、その義烈さから孝文帝に許され、のち燕の相・将軍を歴任、呉楚の乱の軍功で兪侯に封じられた。

年表(1件)
  • 景帝
  • 中五年死去。子の賁が後を継ぐが、供物の不備により国は除かれた

現代語訳全文

出自と彭越との縁

  • 欒布は、梁の人である。初め梁王の彭越がまだ庶民であった時、かつて布と交遊があった。窮困し、斉で雇われ仕事をし、酒屋の使用人となった。数年経ち、彭越は去って巨野の沢の中で盗賊となったが、布は人にさらわれ売られ、燕で奴隷となった。
  • その家の主人のために仇を討ち、燕の将の臧荼はこれを取り立てて都尉とした。臧荼は後に燕王となり、布を将とした。臧荼が謀反するに及んで、漢は燕を攻撃し、布を捕虜にした。梁王の彭越はこれを聞き、そこで上に言上し、布を贖い出し梁の大夫とすることを願い出た。

彭越誅殺への抗議

  • (欒布が)斉に使者として赴き、まだ戻らないうちに、漢は彭越を召し、謀反の罪に問い、三族を滅ぼした。その後彭越の首を雒陽の下に梟首にし、詔して言った、「あえてこれを収容して見ようとする者があれば、すぐに捕らえよ」と。
  • 布は斉から戻り、彭越の首の下で事を報告し、これを祀って哭泣した。役人は布を捕らえ上に知らせた。上は布を召し、罵って言った、「お前は彭越と共に謀反したのか。私は人がこれ(彭越の遺体)を収容することを禁じたのに、お前は独りこれを祀って哭泣した、彭越と共に謀反したことは明らかだ。早くこれを煮殺せ」と。
  • ちょうど提げられ湯(煮え湯の刑)に向かおうとしたとき、布は振り返って言った、「どうか一言申し上げてから死なせてください」と。上は言った、「何を言うのか」と。布は言った、「上がまさに彭城で苦しみ、滎陽・成皋の間で敗れておられたとき、項王がついに西に進むことができなかったのは、ただ彭王が梁の地に居て、漢と合従して楚を苦しめていたからです。
  • この時、彭王がひとたび意向を示せば、楚に味方すれば漢が破れ、漢に味方すれば楚が破れました。しかも垓下の会戦は、彭王がいなければ、項氏は滅びなかったでしょう。天下がすでに定まると、彭王は割符を受けて封じられ、それを万世に伝えようと思っていました。
  • 今陛下が一度梁に兵を徴発しただけで、彭王は病で従軍できず、それなのに陛下は疑って謀反したと考え、謀反の形跡もまだ現れないうちに、些細な事案によってこれを誅滅されました、臣は功臣たちが一人一人自ら危うく思うことを恐れます。今彭王はすでに死にました、臣は生きているより死んだ方がましです、どうか煮殺されることを望みます」と。
  • そこで上はそこで布の罪を許し、都尉に拝命した。

孝文帝以降の経歴

  • 孝文の時、燕の相となり、将軍にまで至った。布はそこで称して言った、「窮困していながら身をへりくだらせ志を屈することができないのは、人間ではない。富貴でありながら意に快くできないのは、賢者ではない」と。そこでかつて恩を受けた者には厚くこれに報い、恨みのある者には必ず法によってこれを滅ぼした。
  • 呉・楚が謀反した時、軍功によって兪侯に封じられ、再び燕の相となった。燕・斉の間ではみな欒布のために社(土地神を祀る祠)を立て、欒公社と号した。

欒布の子孫

  • 景帝中五年に死んだ。子の賁が跡を継いだが、太常となり、犠牲(祭祀の供物)が令に従わなかったことにより、国は除かれた。

史論

  • 太史公は言う。項羽の気概をもってしても、季布は勇猛さで楚に知られ、自ら軍を率い旗を奪うことがたびたびあった、壮士と言えよう。しかし刑罰を受け、人の奴隷となっても死ななかったことに至っては、なんとその身を落としたことであろうか。
  • 彼はきっと自らの才能を頼みとし、それゆえ恥辱を受けても恥じることなく、まだ十分に発揮しきれていないその力を用いる機会があることを望んでいたのであろう、それゆえついに漢の名将となったのである。賢者はまことにその死を重んじる。
  • そもそも婢妾や賤しい者が感情に任せて自殺するのは、勇気があるからではなく、その計略に他に道がないからにすぎない。欒布が彭越を哭き、煮え湯に向かうことを我が家に帰るかのようにしたのは、彼がまことに自分の身の処し方を知っていて、自分の死を軽々しく扱わなかったからである。たとえ昔の烈士であっても、これに何を加えられようか。