史記卷九十八 傅靳蒯成列傳第三十八 靳歙
信武侯靳歙。中涓として沛での挙兵に従い、秦軍・楚軍相手の数々の合戦で戦功を重ね、生涯で斬首九十級・捕虜百三十二人、破った軍十四、降した城五十九に及ぶ大功をたてた武将。高后五年(前183年)に没した。
年表(3件)
- 漢三年滎陽の東で楚軍を破るなどの功により食邑四千二百戸を賜った
- 孝文後三年(前)161年孫の代に国人への処遇が法を超えたとして侯位を奪われ国が除かれた
- 高后五年(前)183年死去し、粛侯と諡された
中涓から信武侯へ
- 信武侯靳歙は中涓として宛朐で挙兵に従った。済陽を攻め、李由の軍を破った。亳の南、開封の東北で秦軍を撃ち、騎千人の将一人・首級五十七・捕虜七十三人を得て臨平君の封号を賜った。藍田の北の戦いでも車司馬二人・騎長一人・首級二十八・捕虜五十七人を得た。霸上に至り、沛公が漢王に立つと建武侯の爵と騎都尉の位を賜った。
- 三秦平定に従い、別に章平の軍を隴西で撃破し隴西六県を平定、車司馬・候各四人、騎長十二人を斬った。東の楚攻めに従い彭城に至ったが漢軍が敗れて雍丘を守った際、反乱した王武らを撃った。梁の地を略し、別に刑説の軍を菑南で破り都尉二人・司馬候十二人を得、降兵四千百八十人を得た。滎陽の東で楚軍を破った。漢三年、食邑四千二百戸を賜った。
- 別に河内へ赴き趙将賁郝の軍を朝歌で破り、騎将二人・車馬二百五十匹を得た。安陽以東を攻め棘蒲に至り七県を下した。別に趙軍を破り司馬二人・候四人を得、降兵二千四百人を得た。邯鄲攻めに従い、別に平陽を下し自ら守相を斬り、麾下が郡の兵守・郡守各一人を斬り鄴を降した。朝歌・邯鄲攻めや別働の趙軍撃破により邯鄲郡六県を降した。
- 敖倉に還軍し、項籍軍を成皋の南で破り楚の兵糧輸送路を絶ち、滎陽から襄邑にまで及んだ。項冠の軍を魯の下で破り、東は繒・郯・下邳、南は蘄・竹邑に至った。項悍を済陽下で撃ち、項籍を陳の下で再び破った。別に江陵を平定し柱国・大司馬以下八人を降し、自ら江陵王を捕らえて洛陽に送り南郡を平定した。陳に至って楚王韓信を捕らえ、剖符・世世不絶を定められ食邑四千六百戸、信武侯と号された。
- 騎都尉として代を攻め、韓信(韓王信)を平城下で攻め東垣に還軍した。功により車騎将軍に昇進し、梁・趙・斉・燕・楚の車騎を併せ率い、別に陳豨の丞相敞を撃破し曲逆を降した。黥布討伐にも功があり食邑五千三百戸に増された。生涯で斬首九十級、捕虜百三十二人、別に破った軍十四、降した城五十九、平定した郡国各一・県二十三、得た王・柱国各一人、二千石以下五百石までの官吏三十九人に及んだ。
- 高后五年(前183年)に卒し、粛侯と諡された。子の亭が継いで二十一年、国人に対する処遇が法を超えたとして孝文後三年(前161年)に侯位を奪われ国は除かれた。