史記卷九十七 列傳第三十七 朱建
要約
平原君朱建は楚の人。かつて淮南王黥布の相を務め、罪を得て去った後再び仕えたが、布が謀反を図った際にこれを諫めて反対した。布は聞き入れず梁父侯の言に従って謀反したが、漢が布を誅した後、朱建が諫めて謀議に加わらなかったことが知られ、誅されずに済んだ。
建は弁が立ち清廉剛直で、義に反して人に取り入ろうとしなかった。呂太后の寵愛を受ける辟陽侯が親しくなろうとしても会おうとしなかったが、建の母が死んだ際、旧知の陸賈の勧めで辟陽侯が手厚く弔問すると、列侯・貴人も倣って弔いの金は五百金に及んだ。
のち、ある人が孝恵帝に辟陽侯を誹謗すると帝は大いに怒って役人に誅殺を命じ、呂太后も恥じて口を出せず、大臣たちの多くも辟陽侯の行いを憎んでいたため、辟陽侯は窮して建に面会を求めたが、建は「訴訟が切迫している、お会いできない」と断った。その代わり建は帝の寵臣閎籍孺に「あなたが帝の寵愛を得ていることは天下の知るところ、辟陽侯が誅されれば太后は怒り明日はあなたが誅される、肉袒して帝に訴え出獄させれば二人の主君の寵愛であなたの富貴はますます倍加する」と説かせ、恐れた籍孺はその計略に従って帝に言上し、案の定辟陽侯は出獄した。獄中で会おうとしなかった建を辟陽侯は裏切られたと恨んでいたが、救出の成功に大いに驚いた。呂太后崩御後、諸呂と深い関係にあった辟陽侯が誅されずに済んだのも陸賈・平原君の力によるものであった。
文帝の代、淮南厲王が諸呂との関係を理由に辟陽侯を殺すと、建がその計略に関与していたと疑われ役人が捕らえに来た。建は「私が死ねば禍いは絶え我が身には及ばぬ」と言って自ら首を刎ねた。文帝はこれを惜しみ「私に彼を殺す意図はなかった」と嘆き、その子を中大夫に取り立てたが、子は匈奴への使者となった際、無礼な単于を罵り、そのまま匈奴の地で死んだ。
年表
朱建(平原君)、楚の人。淮南王黥布に仕えたが、その謀反には反対して誅を免れた。弁が立ち清廉剛直な人柄で、辟陽侯との関係を通じて陸賈と共にその危機を救った。呂太后崩御後の諸呂誅滅でも辟陽侯を守り抜いたが、孝文帝の時に淮南厲王が辟陽侯を殺した事件への関与を疑われ、自ら首を刎ねて死んだ。
年表(3件)
- 黥布が謀反した時平原君、諫めて謀議に加わらず、誅を免れた
- 呂太后が崩じ大臣らが諸呂を誅した時辟陽侯は諸呂と深い関わりがありながら誅されずに済んだ
- 孝文帝の時淮南厲王が辟陽侯を殺した事件に連座を疑われ、平原君は自ら首を刎ねて死んだ
現代語訳全文
出自と黥布への諫言
- 平原君の朱建は、楚の人である。もとかつて淮南王の黥布の相を務めていたが、罪を得て去り、後に再び黥布に仕えた。布が謀反しようとしたとき、平原君に問うたが、平原君はこれに反対した、布はこれを聞き入れず梁父侯の言葉を聞き入れ、ついに謀反した。漢がすでに布を誅すると、平原君が諫めて謀議に加わらなかったと聞き、誅されずに済んだ。この話は『黥布』の言葉の中にある。
辟陽侯との関係
- 平原君は人となり弁が立ち、清廉で剛直であり、長安に家を構えていた。行いは苟も合わせようとせず、義において人に取り入ろうとしなかった。辟陽侯は行いが正しくなかったが、呂太后の寵愛を得ていた。当時辟陽侯は平原君と親しくなろうとしていたが、平原君は会おうとしなかった。
- 平原君の母が死ぬに及んで、陸生は日頃から平原君と親しかったので、これを訪ねた。平原君の家は貧しく、まだ葬儀を出すことができず、ちょうど喪服や道具を借りようとしていたが、陸生は平原君に葬儀を出させた。陸生は行って辟陽侯に会い、祝って言った、「平原君の母が死にました」と。
- 辟陽侯は言った、「平原君の母が死んだのに、なぜ私に祝いを言うのか」と。陸賈は言った、「先日あなたは平原君と親しくなろうとされましたが、平原君は義によりあなたと親しくしませんでした、それはその母のためです。今その母が死にましたので、あなたが本当に手厚く葬儀を贈られれば、彼はあなたのために死をも厭わないでしょう」と。辟陽侯はそこで百金を持って弔問に行った。列侯・貴人たちも辟陽侯のゆえに、弔問して贈った金は合わせて五百金に及んだ。
辟陽侯救出の周旋
- 辟陽侯は呂太后の寵愛を受けていたが、ある人が孝恵帝に辟陽侯を誹謗した。孝恵帝は大いに怒り、役人に下してこれを誅しようとした。呂太后は恥じ、これについて口を出すことができなかった。大臣の多くは辟陽侯の行いを憎んでおり、そのまま彼を誅しようとした。
- 辟陽侯は危急に陥り、そこで人を遣わして平原君に会おうとした。平原君は辞退して言った、「訴訟が切迫しています、あえてあなたにお会いできません」と。そこで孝恵帝の寵臣である閎籍孺に会うことを求め、これに説いて言った、「あなたが帝の寵愛を得ている理由は、天下で聞かない者はありません。
- 今辟陽侯は太后の寵愛を受けていながら役人に下されました、道行く人々はみなあなたが讒言してこれを殺そうとしていると言っています。今日辟陽侯が誅されれば、明日には太后は怒りを含み、あなたもまた誅すでしょう。なぜ肉袒(上半身裸になり謝罪の意を表す)して帝に辟陽侯のことを言上しないのですか。
- 帝があなたの言葉を聞き入れて辟陽侯を出獄させれば、太后は大いに喜ぶでしょう。二人の主君共にあなたを寵愛することになり、あなたの富貴はますます倍加するでしょう」と。そこで閎籍孺は大いに恐れ、その計略に従い、帝に言上し、案の定辟陽侯を出獄させた。
- 辟陽侯が獄に囚われていたとき、平原君に会おうとしたが、平原君は辟陽侯に会わなかったので、辟陽侯は自分を裏切ったと思い、大いに怒っていた。しかしその救出が成功するに及んで、そこで大いに驚いた。
朱建の最期
- 呂太后が崩じ、大臣たちが諸呂を誅したとき、辟陽侯は諸呂と非常に深い関係にあったが、ついに誅されなかった。この計画によって全うできた理由は、みな陸生・平原君の力によるものであった。
- 孝文帝の時、淮南の厲王が辟陽侯を殺したのは、諸呂との関係のゆえであった。文帝はその賓客の平原君が(辟陽侯のために)計略を立てていたと聞き、役人を遣わして捕らえ取り調べさせようとした。役人が門に至ったと聞くと、平原君は自殺しようとした。息子たちや役人はみな言った、「事の次第はまだ分かりません、どうして早まって自殺されるのですか」と。
- 平原君は言った、「私が死ねば禍いは絶える、我が身に及ぶことはない」と。そのまま自ら首を刎ねた。孝文帝はこれを聞いて惜しみ、言った、「私に彼を殺す意図は無かったのだが」と。そこでその子を召し、中大夫に拝命した。匈奴への使者となったが、単于が無礼であったので、そこで単于を罵り、そのまま匈奴の地で死んだ。
【異伝】酈食其と沛公の出会い
- 初め、沛公が兵を率いて陳留を通ったとき、酈生は軍門に赴いて謁見を願い出て言った、「高陽の賤しき民である酈食其は、ひそかに沛公が野に身をさらし、兵を率いて楚を助けて不義を討たれていると聞き、慎んで従者の方々をねぎらいたく、どうか拝謁いただき、口頭で天下の役に立つ事を申し上げたく存じます」と。
- 使者が入って取り次ぐと、沛公はちょうど足を洗っていたが、使者に問うて言った、「どのような人物か」と。使者は答えて言った、「風貌は大儒のようで、儒者の衣を着て、側注(儒者の冠)をかぶっています」と。沛公は言った、「私のために断ってくれ、私はちょうど天下のことに追われていて、儒者に会う暇がないと言ってくれ」と。
- 使者が出て断って言った、「沛公は謹んで先生に謝意を伝えます、ちょうど天下のことに追われていて、儒者にお会いする暇がありません」と。酈生は目をいからせ剣に手をかけて使者を叱って言った、「行け。再び入って沛公に言え、私は高陽の酒飲みだ、儒者ではない、と」と。
-
使者は恐れて謁見の書状を落とし、跪いてこれを拾い、引き返して走り、再び入って報告して言った、「客は、天下の壮士です、臣を叱りつけました、臣は恐れ、謁見の書状を落としてしまいました。客はこう言いました、『行け、再び入って言え、あなたの主人は高陽の酒飲みだ、と』」。沛公は急いで足を拭き矛を杖にして立ち上がり言った、「客を招き入れよ」と。
-
酈生が入ると、沛公に一礼して言った、「足下は非常にご苦労なことです、衣を野にさらし冠を露にして、兵を率いて楚を助けて不義を討たれていますが、足下はなぜご自身でそれをお喜びにならないのですか。臣は事をもってお目にかかりたいと願ったのに、『私はちょうど天下のことに追われていて、儒者に会う暇がない』と言われました。
- そもそも足下が天下の大事を興し天下の大功を成し遂げようとされるのであれば、外見だけで人を判断するのでは、天下の有能な士を失うことを恐れます。しかも私が推し量るに足下の智恵は私に及ばず、勇気もまた私に及びません。もし天下を成し遂げようとされながら私にお会いにならないのであれば、ひそかに足下のためにそれ(好機)を失われることになると考えます」と。
- 沛公は謝って言った、「先ほどは先生の容貌のことを聞いていましたが、今先生のお考えを知りました」と。そこで招き入れて座らせ、天下を取る方法を尋ねた。酈生は言った、「そもそも足下が大功を成し遂げようとされるなら、陳留に留まるのが一番です。陳留は、天下の要衝であり、兵の集まる地であり、蓄えられた穀物は数千万石に及び、城の守りは非常に堅固です。
-
臣は日頃からその令と親しいので、どうか足下のためにこれを説得させてください。臣の言葉を聞き入れなければ、臣は足下のためにこれを殺しましょう、そして陳留を陥落させましょう。足下は陳留の民衆を率い、陳留の城に拠り、その蓄えられた穀物を食糧とし、天下の従う兵を招きましょう。従う兵がすでに集まれば、足下は天下を思うがままに進むことができ、誰も足下を害することはできないでしょう」と。沛公は言った、「謹んでお言葉を承りました」と。
-
そこで酈生はそこで夜のうちに陳留の令に会い、これに説いて言った、「そもそも秦は無道であって天下はこれに背いています、今足下が天下と共に(秦に)背けば大功を成し遂げることができます。今独り滅びゆく秦のために城に籠って堅く守っているのは、臣はひそかに足下のためにこれを危ういことだと考えます」と。
- 陳留の令は言った、「秦の法は非常に厳しく、みだりに言うことはできません、みだりに言う者は一族殺されます、私は応じることができません。先生が私にお教えになろうとしていることは、私の意図するところではありません、どうかもう二度とおっしゃらないでください」と。
- 酈生は留まって寝たが、夜半に陳留の令の首を斬り、城を越えて下り沛公に報告した。沛公は兵を率いて城を攻め、令の首を長い竿に懸けて城上の人々に示し、言った、「早く降伏せよ、お前たちの令の首はすでに斬られている。今後降伏する者は必ず先に斬るぞ」と。
- そこで陳留の人々は令がすでに死んだのを見て、そのまま相次いで沛公に降伏した。沛公は陳留の南城門の上に宿営し、その武器庫の兵器を利用し、蓄えられた穀物を食糧とし、陳留に出入りすること三か月、従う兵は万を数えるに至り、そのまま(関中に)入って秦を破った。
史論
- 太史公は言う。世に伝わる酈生の書物では、多くが「漢王がすでに三秦を陥落させ、東に項籍を攻撃して鞏・洛の間に軍を率いていたとき、酈生は儒者の衣を着て漢王を説きに行った」と言っているが、これは誤りである。(実際には)沛公がまだ関に入っていなかった時から、項羽と別れて高陽に至り、酈生兄弟を得たのである。
- 私は陸生の『新語』十二篇を読んだが、まことに当代の弁士であった。平原君の子に至っては私と親しかった、それゆえこれを詳しく論じることができたのである。