弁舌の士、高祖に仕える
- 陸賈は楚の人。食客として高祖に従い天下平定に加わり、弁舌の士として知られ、常に側近として諸侯への使者を務めた。
南越王尉他の説得
- 高祖の代、中国が定まった頃、尉他が南越を平定し自ら王となっていた。高祖は陸賈を遣わし尉他に印綬を与え南越王に封じさせた。
- 尉他は椎髻・箕踞のまま陸賈に会おうとしたが、陸賈は「あなたは元来中国人で親族・祖墓は真定にある。それなのに天性に背き冠帯を棄て、小さな越をもって天子に敵対すれば禍が身に及ぶ」と説いた。さらに秦の失政、項羽の背約と滅亡、漢王が巴蜀から興って五年で海内を平定した経緯を述べ、「天子はあなたが南越王となったことを咎めず、使者を遣わして印綬と符節を授けたのだから、本来は郊迎して臣と称すべきだ。もし新しく興った越の力で強がるなら、漢は先祖の墓を暴き宗族を滅ぼし、十万の兵一手で越を臨むだろう」と警告した。
- 尉他は驚いて起き上がり非礼を謝した。陸賈との問答で「自分と蕭何・曹参・韓信を比べればどうか」「自分と皇帝を比べればどうか」と尋ね、陸賈が高祖の功業の大きさを説くと、尉他は大笑いして「中国に興らなかったからここで王となったまで。もし中国にいたら漢に劣らぬだろう」と応じ、陸賈を留めて数か月酒を酌み交わし、千金の贈り物を与えた。陸賈は尉他を南越王として漢に臣従させることに成功し、帰国後に太中大夫を拝命した。
『詩』『書』を説き『新語』を著す
- 陸賈がたびたび高祖の前で『詩』『書』を説くと、高帝は「わしは馬上で天下を取った、詩書など何の役に立つか」と罵った。陸賈は「馬上で取ったからといって馬上で治められようか。湯武は逆取りして順守した。文武並用こそ長久の術である」と反論し、秦が刑法一辺倒で滅んだ例を挙げ、もし秦が仁義を行っていれば陛下が天下を得ることもなかったろうと述べた。高帝は面目を失いつつも陸賈に秦の失政と漢の得天下の理由、古今の興亡を著すよう命じた。
- 陸賈は存亡の兆しを述べ、全十二篇を著した。奏上のたびに高帝は称賛し、左右は万歳を唱え、その書は『新語』と呼ばれた。
呂后期の隠退と陳平との謀
- 孝恵帝の代、呂太后が政を専らにし呂氏を王に立てようとして、直言する大臣を畏れた。陸賈は自ら争えぬと悟り、病と称して官を退き、好畤の地を選んで家を構えた。五人の男子があり、南越で得た財貨千金を売り、子一人二百金ずつ分け与え生業とさせた。陸賈自身は安車駟馬に乗り歌舞十人を従え、宝剣は百金の価値があった。子には「十日ごとに家を巡り、酒食を尽くし、私が死んだ家で剣・車馬・侍従を得よ」と約した。
- 呂太后が呂氏を王とし専権を強めると、右丞相陳平はこれを憂えたが力及ばず思い悩んでいた。陸賈が訪ねて「何をそれほど思案しているのか」と問い、「天下安ければ相に注意が集まり、危うければ将に集まる。将相が和合すれば士は帰服し、権は分散しない。社稷のために両者が手を結ぶべきだ」と説き、太尉絳侯(周勃)との連携を勧めた。陳平はこの策に従い、五百金で絳侯に寿を祝い厚く酒宴を設け、絳侯も同様に報いた結果、両者は深く結び、呂氏の勢力は衰えた。陳平は奴婢百人・車馬五十乗・銭五百万を陸賈に贈り、陸賈はこれにより漢廷の公卿の間で名声を博した。
- 呂氏誅滅と孝文帝擁立にも陸賈は力を尽くした。文帝即位後、陳丞相らの推挙により陸賈は太中大夫として再び南越に赴き、尉他に黄屋・称制をやめさせ諸侯と同格に扱わせることに成功した(詳細は『南越』の記事にある)。陸賈は天寿を全うして没した。
朱建(平原君)――辟陽侯との駆け引き
- 朱建は楚の人で「平原君」と号した。かつて淮南王黥布の相を務めたが罪を得て去り、のち再び黥布に仕えた。黥布が反乱を企てた際、朱建は諫めてこれに反対したが、黥布は梁父侯の言を聞き入れて反乱した。漢が黥布を誅した後、平原君が諫めて謀に与しなかったと知られ、罪を免れた(詳細は『黥布』の記事にある)。
- 平原君は弁舌に優れ廉直な人柄で、長安に住み義に反する交わりを持たなかった。素行の正しくない辟陽侯(審食其)は呂太后の寵を得ていたが、平原君は近づこうとしなかった。平原君の母が死んだ際、家が貧しく喪の準備もできずにいたところ、親しい陸賈が発喪を勧め、さらに辟陽侯のもとへ「平原君の母が死んだ」と祝いに行った。辟陽侯が不審がると、陸賈は「以前あなたが平原君と近づきたがったのに彼が拒んだのは母のためだった。今こそ厚く弔えば平原君はあなたのために死ぬだろう」と説いた。辟陽侯は百金を送り、他の貴人たちも合わせて五百金を贈った。
- のち辟陽侯が孝恵帝に讒言され誅殺されかけた際、平原君は当初「獄が急で会えない」と辟陽侯の使者を拒んだが、孝恵帝の寵臣閎籍孺を説き「辟陽侯が誅されればあなたにも累が及ぶ、肉袒して帝に弁じれば太后・帝双方の歓心を得られる」と勧め、閎籍孺の進言により辟陽侯は救われた。辟陽侯は当初平原君に裏切られたと怒ったが、事の次第を知って大いに驚いた。
- 呂太后が崩じ大臣が諸呂を誅した際、辟陽侯は諸呂に深く関わっていたが誅を免れた。これも陸賈・平原君の尽力によるものであった。
- 孝文帝の代、淮南厲王が辟陽侯を諸呂に与した咎で殺すと、文帝は平原君が謀に関わったとして捕縛の吏を遣わした。平原君は自殺しようとし、子や吏に「事はまだわからぬ」と止められたが「私が死ねば禍はここで絶える、我が身に及ばぬ」と自刎した。文帝はこれを聞いて惜しみ「殺す意図はなかった」と言い、その子を中大夫に取り立てた。この子は匈奴への使者となり、単于の無礼を罵って匈奴の地で死んだ。
酈食其――沛公との出会い(異伝)
- 初め、沛公が兵を率いて陳留を通った際、酈食其は軍門に立ち「高陽の賤民酈食其、沛公が野に暴露して不義の楚を討つと聞き、天下の便事を口で説きたい」と謁見を求めた。沛公は洗足中で、使者から「大儒のような風貌で儒衣を着ている」と聞くと「天下のことで忙しく儒者に会う暇はない」と断らせた。
- 酈食其は目を怒らせ剣を按じて使者を叱り「わしは高陽の酒徒であって儒者ではない」と言い放った。使者はあわてて謁刺を落としながら報告し、沛公は驚いて足を拭き矛を杖に「客を延き入れよ」と命じた。
- 酈食其は「足下は天下の大事を成そうとしながら外見だけで人を判断すれば天下の能士を失う。私の知恵も勇気もあなたに劣らぬのに、それでも会わずに天下を取ろうというのか」と諭し、沛公は前非を謝して迎え入れた。酈食其は「陳留は天下の要衝で兵の集まる地、蓄えは数千万石に及ぶ。私が令を説いて降させ、聞かなければ殺してでも陳留を取れば、兵糧と兵を得て天下を横行できる」と説いた。
- 酈食其は夜に陳留の令を訪ねて説いたが、令は「秦法は厳しく妄言はできない」と拒んだため、酈食其は夜半に令の首を斬って城を越え沛公に報じた。沛公は令の首を長い竿にかけて城内に示し、陳留の人々は降伏した。沛公は陳留の南門に留まり庫の兵器と穀物を用いて三か月を過ごし、従う兵は万を数えるに至り、これを機に秦を破る態勢を整えた。
史論
- 太史公は言う。世に伝わる酈食其の話では、漢王が既に三秦を取り東進して項籍を攻め、鞏・洛の間に軍を置いていた頃に酈食其が儒服のまま漢王を説いたとされるが、これは誤りである。実際は沛公がまだ関中に入る前、項羽と別れて高陽に至った際に酈食其兄弟を得たのである。
- 私(太史公)は陸賈の『新語』十二篇を読んだが、まことに当代の弁士というべきである。また平原君の子と親しかったので、その事跡を詳しく論じることができた。