史記卷九十五 樊酈滕灌列傳第三十五 樊噲

樊噲(?–孝惠六年)は沛の人。犬の屠殺を業とし高祖と旧知の間柄であった。挙兵当初から高祖に従い、数々の攻城戦で先登の功を重ねた。鴻門の会では項羽の営に踏み込んで諫言し、高祖の危機を救った。楚漢戦争を通じて各地で戦功を挙げ舞陽侯に封じられ、呂后の妹呂須を娶り外戚としても重んじられたが、晩年は讒言により高帝の疑いを受け危うく誅されかけた。

年表(2件)
  • 孝惠六年卒す。武侯と諡され、子の伉が代わって侯となる
  • 孝景中六年子孫の他廣、実子でないとの上書により侯位を奪われ国が除かれる

挙兵から関中入りまでの武功

  • 舞陽侯樊噲は沛の人。犬の屠殺を業とし高祖と隠れて共に過ごした仲であった。高祖が豊で挙兵し沛を攻略した際、噲は舎人となった。胡陵・方与を攻め、豊に戻って守り、泗水監を豊の下で撃破した。さらに沛を平定し泗水守を薛の西で破った。碭東で司馬と戦い敵を退け十五級を斬って国大夫の爵を賜った。沛公に従い章邯軍を濮陽で攻めた際は城攻めの先登を務め二十三級を斬って列大夫の爵を賜った。城陽攻め・戸牖攻略でも先登を務め、李由の軍を破り十六級を斬って上閒の爵を賜った。成武で東郡守尉を囲む際も敵を退け十四級を斬り十一人を捕虜として五大夫の爵を賜った。亳南で秦軍を撃ち、杠里で河間守の軍を破った。開封の北で趙賁の軍を破り先登で候一人・首六十八級を得、二十七人を捕虜として卿の爵を賜った。曲遇で楊熊の軍を破るのに従い、宛陵攻めでも先登し八級を斬り四十四人を捕虜として賢成君の封号を賜った。長社・轘轅を攻め黄河の渡しを絶ち、尸で秦軍を東から、犨で南から攻め、陽城で南陽守齮を破り、宛城を東から攻めて先登、酈まで西進し敵を退けて二十四級を斬り四十人を捕虜として重封を賜った。武関を攻め霸上に至り都尉一人・首十級を得て百四十六人を捕虜とし二千九百人を降した。

鴻門の会

  • 項羽が戯下に陣し沛公を攻めようとしていた際、沛公は百余騎を率い項伯を通じて項羽に見え、関を閉ざした事実はないと弁明した。項羽が軍士に酒宴を張り酒が回った頃、亜父(范増)は沛公を殺そうと項莊に剣舞をさせ隙を狙わせ、項伯は身を挺してこれを遮った。沛公と張良だけが席にいたが樊噲は営外にいて事の急を聞き、鉄の盾を持って営に入った。守衛が止めるのを噲は押し破って進み、幕の下に立った。項羽が誰かと問うと張良が「沛公の参乗樊噲」と答え、項羽は「壮士だ」と杯の酒と豚の肩肉を賜った。噲は酒を飲み干し剣で肉を切って食い尽くした。「もう一杯飲めるか」との問いに噲は「臣は死すら辞さぬのに、杯の酒などものの数ではありません。沛公は先に咸陽を平定しながら霸上で軍を晒し大王を待っていました。大王は今日至って小人の言を聞き沛公と隙を作ろうとしています、天下が離反し大王を疑うのではと恐れます」と答え、項羽は黙り込んだ。沛公が厠に立つ折に噲を退がらせ、沛公は車騎を残し馬一頭だけで樊噲ら四人と徒歩で間道から霸上の軍へ帰り、張良に項羽への謝辞を託した。項羽もそれきり事を収め沛公を誅す気は失せた。この日、樊噲が営に駆け込み項羽を諫めなければ沛公の身は危うかったであろう。

三秦平定から楚漢戦争

  • 翌日、項羽は咸陽を屠り沛公を漢王に立てた。漢王は噲を列侯とし臨武侯と号した。郎中に遷り漢中に従った。三秦平定の際は西丞の軍を白水の北で、雍の軽車騎を雍南で破り、雍・斄城攻めで先登、章平軍を好畤で攻めて先登陥陣し県令・丞各一人と首十一級を斬り二十人を捕虜として郎中騎将に遷った。壤東で秦の車騎を撃ち敵を退けて将軍に遷った。趙賁を攻め郿・槐里・柳中・咸陽を下し廢丘を灌水攻めにして最高の功を挙げた。櫟陽に至り杜の樊郷を食邑として賜った。項籍を攻め煮棗を屠り、外黄で王武・程處の軍を破った。鄒・薛を攻め、魯・瑕丘に至った際、項羽が彭城で漢王を破り魯・梁の地を再び奪ったが、噲は滎陽に戻り平陰二千戸を加増され将軍として広武を守った。一年後、項羽が東へ引くと高祖に従って項籍を攻め陽夏を下し楚の周将軍の卒四千人を虜とし、陳で項籍を包囲して大破し、胡陵を屠った。

漢建国後の功

  • 項籍の死後、漢王が帝位に就くと噲の堅守の功に八百戸を加増した。高祖に従い反乱した燕王臧荼を攻め虜とし燕の地を平定した。楚王韓信が反すると陳まで従って信を捕らえ楚を平定した。列侯として改めて封を与えられ舞陽を食邑として舞陽侯と号し前の食邑を除いた。将軍として高祖に従い代で反した韓王信を攻め、霍人から雲中まで絳侯らと共に平定して千五百戸を加増された。さらに陳豨・曼丘臣の軍を攻め襄国で戦い柏人を破って先登し、清河・常山二十七県を平定し東垣を残滅させ左丞相に遷った。無終・広昌で綦毋卬・尹潘の軍を破り、代の南で豨の別将胡人王黄の軍を破り、参合で韓信の軍を撃った。麾下の卒が韓信を斬り、横谷で豨の胡騎を破り将軍趙既を斬り、代丞相馮梁・守孫奮・大将王黄・将軍・太卜太僕解福ら十人を虜とした。諸将と共に代の七十三の郷邑を平定した。その後、燕王盧綰が反すると噲は相国として盧綰を攻め、その丞相を薊の南で破り燕の地十八県・郷邑五十一を平定した。千三百戸を加増され舞陽の食邑は合わせて五千四百戸となった。従軍の功として首百七十六級を斬り二百八十八人を虜とし、別動では七軍を破り五城を下し六郡・五十二県を平定し丞相一人・将軍十二人・二千石以下三百石まで十一人を得た。

呂后との縁と晩年

  • 噲は呂后の妹呂須を妻とし子伉をもうけ、諸将中もっとも呂氏に近い立場となった。黥布の反乱前、高祖が重病で人を避け宮中に伏し臣下の面会を禁じたため絳侯・灌嬰らも敢えて入れなかった。十余日後、噲は宮門を押し開いて直入し大臣もこれに続いた。上は一人の宦者を枕に臥していた。噲らは涙を流しながら「かつて陛下と豊沛で挙兵し天下を定めた時はあれほど壮んだったのに、今天下が定まってなぜこれほど憊れておられるのですか。しかも陛下の病は重く大臣は震え恐れているのに臣らを召さず一人の宦者とだけ隔絶されるおつもりですか。趙高の故事をご存知ないはずはありますまい」と諫めると高帝は笑って起きた。
  • その後盧綰が反すると高帝は噲を相国として燕討伐に送った。折しも高帝の病が重く、噲が呂氏に党すると憎む者があり「上が万一崩御すれば噲は兵を挙げて戚氏・趙王如意の一族を滅ぼすだろう」と讒言した。これを聞いた高帝は激怒し陳平に絳侯を軍中で代将させ、軍中で噲を斬らせようとした。陳平は呂后を恐れて噲を捕らえたまま長安に連行し、着いた時には既に高祖は崩じていた。呂后は噲を釈放しその爵邑を復した。

子孫

  • 孝惠六年、樊噲は卒し武侯と諡された。子伉が代わって侯となった。伉の母呂須も臨光侯となり、高后の時に権を専らにし大臣は皆これを畏れた。伉が侯となって九年、高后が崩じると大臣は諸呂と呂須の一族を誅す際に伉も誅され、舞陽侯の家系は数月絶えた。孝文帝が即位すると噲のもう一人の庶子市人を舞陽侯に再封し爵邑を復した。市人は二十九年在位して卒し荒侯と諡された。子他廣が代わって侯となったが六年後、侯家の舎人が他廣に罪を得た恨みから「荒侯市人は病で人事不能であったため夫人がその弟と密通して他廣を生んだ、他廣は実は荒侯の子ではなく後を継ぐ資格はない」と上書し、事が吏に下された。孝景中六年、他廣は侯位を奪われ庶人となり国は除かれた。